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よく、太平洋戦争の日米航空戦史について書かれた本を読むと、「日本は被撃墜、故障等で不時着したパイロットの救出に不熱心だったが、アメリカは潜水艦、飛行艇、救命筏を装備した飛行機での救助に全力を尽くした。」とありますが、当時より遙かに優れた捜索機器のある平和時の現在でさえ行方不明者の捜索は難しいのに、戦時下の当時、そんなに的確な救助活動ってできたのか?との疑問が湧きます。当時の米軍の、行方不明者の救助率ってどれくらいだったのでしょうか。 NX |
平和時の捜索、てのは例えば先の衝突事故とかをいってるのだと思いますが、
まず第一に、墜落・漂流の可能性が平和時である現代より格段に高いため、
墜落したときへの備えが充実してることが挙げられます。
英仏海峡でのバトルオブブリテン当時、墜落したパイロットは被発見率を高めるためのマーカーを使ったので、海上に点々と目立つ色のペンキが広がっていたとのことです。
それにもう一つ、空中戦が起こりそうな場所ってのはある程度特定されるため、
墜落・漂流しそうな海域というのもあらかじめ想定できるんです。
場合によっては空中戦が繰り広げられてる空域の下、海中には最初から救助用の潜水艦が待機してた例もあったみたいです。
勝井
NX
アリエフ
バトゥ
内容は、墜落したB−29の爆雷が水中で爆発すると、その爆発音で墜落地点を特定して、救助活動を行うというものでした。
そして、その時の研究がソナーによる潜水艦探知にも役立っているとのことでした。
どれだけ実用的だったか分かりませんが、いろいろ研究はやってたようですね。
その他に、坂井三郎氏は、硫黄島付近で、救助活動中らしい米潜水艦を目撃しているようですね。
ブッシュ元大統領(オヤジさんの方)は父島沖で、潜水艦に救助されています。
(フィルムあり)
うろ覚えですが、看護婦搭乗の米飛行艇が救助活動を行っているのを目撃したという戦記ものを読んだ記憶があります。
それなりの成果は挙げたのではないでしょうか。
SAW
・「55年目の真実」浜松市在住の鳥居様よりの投稿記事
これによりますと、浜松にて、B−17H(B−17の救難タイプ)が撃墜された事があるそうです。
日本本土上空にまでこのような機体を送りこむくらいですから撃墜されて不時着水したらかなり短時間で救助が可能なように体制が整っていたのではないでしょうか。
長谷川模型公式HP
http://www.hasegawa-model.co.jp/
このHPの「投稿画像」と言う所に以上のタイトルの記事がありました。
ooi
『「第20航空軍作戦概要」1944.6.5〜1945.8.14 勝利への貢献』の中の
「勝利の代償」の項に以下の記述があります。
「戦争中、新兵として第20爆撃機集団及び第21爆撃機集団のB-29に搭乗した
2048チームのうち、317チームがつまり15%-約3500名が死傷した。」
「両爆撃機集団に納入した新品のB-29のうち、破壊されたのは498機つまり30%
であった。・・・このため終戦時に残った第20航空軍のB-29は974機である。」
「戦闘任務中の破壊は414機このうち敵の戦闘行動により失ったのはわずか148機」
「115機は原因不明」
損失率 出撃1回当り 1944.11 4.1%
12 4.5%
1945. 1 5.0%
2 3.4%
3 1.3%
4 2%以下
5 2%以下
6 1%以下
7 1%以下
8 1%以下
空海救助「空海救助活動で7月までに654名を救出した。これは海に墜落した搭乗員
の50%にあたる。数値にはB-29以外の搭乗員が含まれている可能性もある。」
となっています。
改めて見ると,「50%」の救助率は思ったより少ない感じがします。
ぼん
まなかじ
NX
ささき
片
片
PQ船団を襲撃するドイツ空軍も、海面が時化ていない限り、攻撃隊に救難用のDo24飛行艇を随伴させています。
こっちは、夏でも数分浸かっていれば凍死しかねないバレンツ海での作戦ですから、すかさず救助できる態勢になければいけないのでしょうけれども。
まなかじ
B-29の第21爆撃機集団の作戦任務報告書263〜267の記載例では
1,第58航空団468爆撃群792飛行隊 42-24855機
空襲実施後、ティニアン基地に帰投中、燃料供給系が故障し、(日本時間)14時28分グアム島近海で不時着水。全員機外に脱出できたが、うち2名は溺死した。2名は救命胴衣を着けて水中でもがいていたが、筏の方へ進まず、水没してしまった。残りの9名は付近の水上艦艇に30分後に救出された。
航空団のとった対応は、今後、乗員が初任務で出撃する前に全員に水中避難訓練を課すこと。(カンザス州トピーカ基地での救命胴衣訓練と水中避難訓練はほとんど行われていない)
B-15緊急用ベルトが納品されていないので、爆撃機群で現地生産すること。
(不時着水時に座席に固定したのは機長と副操縦士だけで、航法士はパラシュートを抱えて、機尾側を向いて机の下へ。航空機関士は手をパネルで支えて座席に。爆撃士は機関士の傍らに身を置いて、安全ベルトが無いので、間に合わせで作った。通信士は前上方銃座で背中を支えて機尾側を向いた。中央火器管制士は前下方銃座に背中を支えてパラシュートを抱いて、足を与圧アクセスドアで支えた・・・緊急時の安全ベルトが無いというのはおどろき!)
2.第315航空団第16爆撃群第16飛行隊 42-63603機
グアム、オローテ半島より北方80マイルにエンジン過回転のため機体放棄。機長よりベイルアウト命令。(日本時間18時4分)夜間の救助になる。
11名中3名救助、9名は行方不明。(尾部銃士が後に遺体で発見)夜間海上で、他の乗員の信号弾や声や咳払いを聞いたが、ついには救出されなかった。この件では査問委員会が開かれ,基地に近くなのになぜ9名も行方不明者が出たか審議された。
乗員の提言 海上艦艇はサーチライトを改善し、敵の行動の可能性が低い場合は、断続的に使用されたい。
査問委員会の注意 水上避難訓練の講義が不十分。
緊急用機材(照明弾等)ポケットでなくポーチで持ち運ぶこと
懐中電灯の不足。兵舎で使用しないこと。
救難機は照明弾を増やすこと。
救難船は照明を最大に使用すること
司令部の対応 1人用救命ボートは新型に順じ切り替えること
緊急機材の持ち運びはポーチを開発中
緊急用機材を個人的に使用することを禁止
以上の例は1945・7・12の例で、終戦1ヶ月前でもまだこのようなことが現場ではおきていたことがわかります。紙面の関係で、通信関係、規則、指示関係を除き大雑把ながらご紹介しました。
ぼん