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438 よく、太平洋戦争の日米航空戦史について書かれた本を読むと、「日本は被撃墜、故障等で不時着したパイロットの救出に不熱心だったが、アメリカは潜水艦、飛行艇、救命筏を装備した飛行機での救助に全力を尽くした。」とありますが、当時より遙かに優れた捜索機器のある平和時の現在でさえ行方不明者の捜索は難しいのに、戦時下の当時、そんなに的確な救助活動ってできたのか?との疑問が湧きます。当時の米軍の、行方不明者の救助率ってどれくらいだったのでしょうか。
NX

  1. 具体的数値は知りませんが、そんなに低くはないのではと思います、回収率。
    平和時の捜索、てのは例えば先の衝突事故とかをいってるのだと思いますが、

    まず第一に、墜落・漂流の可能性が平和時である現代より格段に高いため、
    墜落したときへの備えが充実してることが挙げられます。
    英仏海峡でのバトルオブブリテン当時、墜落したパイロットは被発見率を高めるためのマーカーを使ったので、海上に点々と目立つ色のペンキが広がっていたとのことです。

    それにもう一つ、空中戦が起こりそうな場所ってのはある程度特定されるため、
    墜落・漂流しそうな海域というのもあらかじめ想定できるんです。
    場合によっては空中戦が繰り広げられてる空域の下、海中には最初から救助用の潜水艦が待機してた例もあったみたいです。
    勝井

  2. 回答ありがとうございます。先の原潜の衝突事故のニュースを聞きながら、ふと疑問に思いましたので。ところで、英仏海峡のように狭い地域や、戦闘機のように航続距離が短い機種の場合は、探索範囲も絞れると思うのですが、例えばB-29の日本本土空襲ミッションのように戦闘行動半径が2000km以上ある場合、効果的な救助態勢って確立できたのでしょうか。B-29は夜間空襲も行ってますし、夜の太平洋上に不時着なんかしてしまうと探しようがないような気がするのですが。
    NX

  3. 日本本土への戦略爆撃では、あらかじめ爆撃機編隊の進路に沿って一定間隔で駆逐艦等を配置し、水上に不時着した場合に連絡を取って迅速に救助に向かえる態勢を取っていたそうです。これも資材に余裕があり、多くの海域で制海権を握っていたからできたのではないでしょうか。
    アリエフ

  4.  リデル・ハートの『第二次世界大戦』には「(マリアナ沖海戦の)米機動部隊の日機動部隊への攻撃は戦闘での損失は20機だったが、夜間長途の帰艦の際80機が行方不明となり、または不時着した。しかしその搭乗員の多くは救助された。小沢艦隊が退却しており、妨害が無かったためである。」と、極大雑把な記述ですがあります。戦史叢書にも似たように書かれていたと思います。
    バトゥ

  5. ずいぶん以前のNHKで、B−29には、撃墜時に、水中で爆発する一種の爆雷が装着されていたと放送していました。
    内容は、墜落したB−29の爆雷が水中で爆発すると、その爆発音で墜落地点を特定して、救助活動を行うというものでした。
    そして、その時の研究がソナーによる潜水艦探知にも役立っているとのことでした。
    どれだけ実用的だったか分かりませんが、いろいろ研究はやってたようですね。

    その他に、坂井三郎氏は、硫黄島付近で、救助活動中らしい米潜水艦を目撃しているようですね。
    ブッシュ元大統領(オヤジさんの方)は父島沖で、潜水艦に救助されています。
    (フィルムあり)
    うろ覚えですが、看護婦搭乗の米飛行艇が救助活動を行っているのを目撃したという戦記ものを読んだ記憶があります。

    それなりの成果は挙げたのではないでしょうか。
    SAW

  6. 米軍が救助活動に熱心だったと言う話の一つとして、こういう記事の投稿が「長谷川模型」HPに投稿されていました。

    ・「55年目の真実」浜松市在住の鳥居様よりの投稿記事
     これによりますと、浜松にて、B−17H(B−17の救難タイプ)が撃墜された事があるそうです。
     日本本土上空にまでこのような機体を送りこむくらいですから撃墜されて不時着水したらかなり短時間で救助が可能なように体制が整っていたのではないでしょうか。

    長谷川模型公式HP
    http://www.hasegawa-model.co.jp/
    このHPの「投稿画像」と言う所に以上のタイトルの記事がありました。


    ooi

  7. 戦後間もなく米軍によってまとめられた
    『「第20航空軍作戦概要」1944.6.5〜1945.8.14 勝利への貢献』の中の
    「勝利の代償」の項に以下の記述があります。
    「戦争中、新兵として第20爆撃機集団及び第21爆撃機集団のB-29に搭乗した
    2048チームのうち、317チームがつまり15%-約3500名が死傷した。」
    「両爆撃機集団に納入した新品のB-29のうち、破壊されたのは498機つまり30%
    であった。・・・このため終戦時に残った第20航空軍のB-29は974機である。」
    「戦闘任務中の破壊は414機このうち敵の戦闘行動により失ったのはわずか148機」
    「115機は原因不明」
    損失率 出撃1回当り 1944.11 4.1%
                  12 4.5%
               1945. 1 5.0%      
     2 3.4%
    3 1.3%
    4 2%以下
    5 2%以下
    6 1%以下
    7 1%以下
    8 1%以下
    空海救助「空海救助活動で7月までに654名を救出した。これは海に墜落した搭乗員
    の50%にあたる。数値にはB-29以外の搭乗員が含まれている可能性もある。」
    となっています。
    改めて見ると,「50%」の救助率は思ったより少ない感じがします。
    ぼん

  8. まあ、もろに「墜落」してしまえば乗員はそうそう生きてないでしょうし、がんばって不時着水しても、鈍足のカタリナや、それよりもはるかに遅い潜水艦や駆逐艦が現場に「急行」している間に溺れたりサメに食われてしまったり負傷者が死んでしまったりもするでしょうから、50%というのはかなりの高率ではないかと思えます。
    まなかじ

  9. 50%の救助率だったのですか。私もすごいと思います。大戦末期にはカタリナで、東京湾に着水してまで(302空の零戦に手もなくひねられたそうです)救助活動をしてたそうですが、米軍の、自軍の兵士の救助にかける熱意は大したものですね(他国の民間人の救助には冷淡ですが・・・)。
    NX

  10. >10 大和沖縄特攻時、修羅場と化した海面に不時着した米軍機の乗員を、攻撃隊に同行していた水上機(カタリナかもしれない)が拾い上げる情景が大和乗員によって目撃されています。鈍重な水偵を大和攻撃隊に同行させるとは勇敢というか、ナメられたもんだということか…(;_;)
    ささき

  11. 一例として3月10日空襲の救助態勢を。潜水艦4隻(日本本土に近い帰投ルート上に定間隔で配置)、潜水艦を遭難機へ誘導するためにB−29改のスーパーダンボ3機、スーパーダンボはもっと南にもさらに1機、水上艦艇3隻(小笠原以南)、海軍ダンボ2機(硫黄島以南)、離着陸事故に備え基地周辺の水面に哨戒艇と高速救難艇。


  12. これが、硫黄島戦終了後には、救助態勢はさらに大胆になり、海軍ダンボ、水上艦艇は緯度的に小笠原よりも北側にまで進出するようになって行きます。6月19〜20日の豊橋・静岡空襲には、スーパーダンボ4機と潜水艦4隻、海軍ダンボ2機と水上艦艇1隻、同時実施の福岡空襲に備えても、スーパーダンボ3機、潜水艦3隻、海軍ダンボ3機、水上艦艇1隻、さらにマリアナに近くダンボ2機、水上艦艇1隻が、帰投線上に配置されています。


  13. >10
    PQ船団を襲撃するドイツ空軍も、海面が時化ていない限り、攻撃隊に救難用のDo24飛行艇を随伴させています。
    こっちは、夏でも数分浸かっていれば凍死しかねないバレンツ海での作戦ですから、すかさず救助できる態勢になければいけないのでしょうけれども。
    まなかじ

  14. 当時の記録からは、全損失機数のうち、海面に激突した機体でなく不時着水した機体が何機あったのかは不明ですが、少なくとも不時着水した後も生存していた乗員を、いかに無事に救出するか米軍は苦労していたようです。
    B-29の第21爆撃機集団の作戦任務報告書263〜267の記載例では
    1,第58航空団468爆撃群792飛行隊 42-24855機
     空襲実施後、ティニアン基地に帰投中、燃料供給系が故障し、(日本時間)14時28分グアム島近海で不時着水。全員機外に脱出できたが、うち2名は溺死した。2名は救命胴衣を着けて水中でもがいていたが、筏の方へ進まず、水没してしまった。残りの9名は付近の水上艦艇に30分後に救出された。
    航空団のとった対応は、今後、乗員が初任務で出撃する前に全員に水中避難訓練を課すこと。(カンザス州トピーカ基地での救命胴衣訓練と水中避難訓練はほとんど行われていない)
    B-15緊急用ベルトが納品されていないので、爆撃機群で現地生産すること。
    (不時着水時に座席に固定したのは機長と副操縦士だけで、航法士はパラシュートを抱えて、機尾側を向いて机の下へ。航空機関士は手をパネルで支えて座席に。爆撃士は機関士の傍らに身を置いて、安全ベルトが無いので、間に合わせで作った。通信士は前上方銃座で背中を支えて機尾側を向いた。中央火器管制士は前下方銃座に背中を支えてパラシュートを抱いて、足を与圧アクセスドアで支えた・・・緊急時の安全ベルトが無いというのはおどろき!)
    2.第315航空団第16爆撃群第16飛行隊 42-63603機
    グアム、オローテ半島より北方80マイルにエンジン過回転のため機体放棄。機長よりベイルアウト命令。(日本時間18時4分)夜間の救助になる。
    11名中3名救助、9名は行方不明。(尾部銃士が後に遺体で発見)夜間海上で、他の乗員の信号弾や声や咳払いを聞いたが、ついには救出されなかった。この件では査問委員会が開かれ,基地に近くなのになぜ9名も行方不明者が出たか審議された。
    乗員の提言 海上艦艇はサーチライトを改善し、敵の行動の可能性が低い場合は、断続的に使用されたい。
    査問委員会の注意 水上避難訓練の講義が不十分。
             緊急用機材(照明弾等)ポケットでなくポーチで持ち運ぶこと
             懐中電灯の不足。兵舎で使用しないこと。
             救難機は照明弾を増やすこと。
             救難船は照明を最大に使用すること
    司令部の対応   1人用救命ボートは新型に順じ切り替えること
             緊急機材の持ち運びはポーチを開発中
             緊急用機材を個人的に使用することを禁止
    以上の例は1945・7・12の例で、終戦1ヶ月前でもまだこのようなことが現場ではおきていたことがわかります。紙面の関係で、通信関係、規則、指示関係を除き大雑把ながらご紹介しました。

    ぼん


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