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312 第二次大戦末期にブルガリア王国政府はソ連の侵攻を恐れて
トルコ政府に参戦要請をしたらしいのですがブルガリア人にとって
憎むべき敵であるトルコにブルガリアがそんな要請を本当にしたのでしょうか?
ルーデンドルフ

  1. まあトルコにとっちゃ、ブルガリア以上に憎むべき敵がソ連=ロシアですから、
    あっても不思議はなさそうな話ですが、
    どこでお聞きになったのですか?
    勝井

  2. 僕の友人にブルガリア人の人がいて
    その人から聞いたんです。
    何でもブルガリアでは現在でも知っている人が多いとか。

    ルーデンドルフ

  3. 全く、答えになっていないのですが、
    何か参考になればと思って書き込ませていただきます。

    ブルガリアは41年春に日独伊三国同盟に加盟し,12月に,独伊とともに英米に宣戦しました(日本と同じで対ソ宣戦はなし)。そして、44年の9月にはソ連軍がブルガリアに宣戦して侵攻を開始、これに呼応したブルガリア共産党などの「祖国戦線」のクーデタで新政権が成立し、直ちに対独宣戦を布告、10月に対連合国講和を結びます。

    ソ連軍侵入までブルガリアは枢軸国の筈ですから、44年9月前の段階でブルガリアはトルコの枢軸参加を求めたのでしょうか? 
    あるいは、44年9月以降にトルコの連合国参加を求めたとも考えられますが、ソ連の影響力の強いブルガリア政府(祖国戦線は人民戦線型の組織ですから非共産主義勢力もいますが)がそんな事をできるのか疑問です。

    まあ、43年に独裁者の国王(変な表現だが)ボリス三世が死んで、6歳のシメオン王を戴くという政治的混乱状態にあるブルガリアですから、なにがあっても不思議じゃないのかも知れませんが…。
    カンタニャック

  4. やばい、文案を練っていたら
    ルーデンドルフさんに返事をされてしまいました。
    (いつも長々と書くからだ、反省)

    ルーデンドルフさん
    なかなか状況がつかめません。
    以下の点について何かわかるならお教え戴きたいのですが。

    ブルガリアはトルコに枢軸参加を求めたのか、連合国参加を求めたのか?
    それは44年9月前のことか、後のことか?
    あるいはボリス三世時代のことか?
    (一つの可能性として、ドイツ系の独裁者国王ボリス三世の政略かなとも考えているので…)
    カンタニャック

  5. 追伸
    考えてみるとブルガリアの対トルコ援助要請の可能性が一番高いのは
    44年9月のソ連の宣戦・侵攻の後、祖国戦線のクーデタ成功の前の時期でしょう。
    「ソ連の侵攻を恐れて」ではなく、「ソ連に侵攻されて」ならワラをもつかむ気持ちでトルコに助けを求めるというのも納得できます。
    違うかなあ?
    カンタニャック

  6. カンタニャックさんの言うように「ソ連に侵攻されて」トルコに
    支援を要請したというのなら僕もわかるのですが
    この前ブルガリア人の親友にこのことを詳しく聞いたところ
    何でも当時のブルガリア王国政府は王政の維持と共産主義の台頭を
    恐れたので、わざとトルコにブルガリアを占領させようとトルコに
    支援を要請したらしいです。
    ブルガリアでクーデターが起こる直前にはすでにトルコが西側連合軍側として
    参戦する事を決定していましたからそのことをブルガリア政府が知って
    ブルガリアの王政維持と共産主義台頭の阻止のために要請したのではないかと
    思います。
    ルーデンドルフ

  7. ルーデンドルフさんへ
    仕事のついでに、バルカン史関係の本をちょっと調べてみたんですが、わかりませんでした。
    一応関連性のありそうなデータだけ送ります。

    1940年(ブルガリアの枢軸参加前) トルコは英、米、ソ連、トルコ、ブルガリア、ギリシアの同盟構想を提唱するが現実化せず。
    41年 ブルガリアは枢軸に参加、ルーマニア、ユーゴスラビア、ギリシアから領土取得。
    41年 ブルガリア 対英米宣戦布告。
    44年1月27日 連合国は、ブルガリアに枢軸からの離脱と第二次大戦初期に近隣国から獲得した領土の放棄を求める声明。
    44年3月 ブルガリア、カイロで連合国(英米)との講和予備会議を開くことを計画。枢軸離脱をはかったハンガリーがドイツに占領されたの見て交渉中止。
    44年春 トルコ、英米の圧力によりクロム鉱石の対独輸出停止。
    44年5月 ブルガリア 中立志向の内閣成立
    44年8月2日 トルコ対独国交断絶。
    44年8月22日 ルーマニアでクーデタ ファシスト派を一掃、ソ連の提案した休戦条件を受諾、対独宣戦布告。
    44年8月27日 ルーマニア首相交代 セルビア、マケドニアからのブルガリア軍の撤退を表明。
    44年8月30日 ルーマニアの首都ブカレストにソ連軍入城。
    44年9月1日 ブルガリア、カイロで連合国と非公式講和会議開始。
    44年9月2日以降 ブルガリア 英米との停戦と独ソ戦への中立を発表。
    44年9月5日 ソ連 対ブルガリア宣戦布告。
    44年9月6日 ブルガリア 対独宣戦布告。
    44年9月8日 ソ連軍 ブルガリアに侵入開始。
    44年9月9日 ブルガリア 共産党などによる祖国戦線のクーデタ。成功。
    45年2月23日 トルコ対独宣戦布告。

    ブルガリアは43〜44年頃から、枢軸離脱と英米の保護を求めて、様々な動きをしていたようです。特にアメリカはブルガリアとの講和に興味を示していましたが、ブルガリアはルーマニア、ユーゴスラビア、ギリシアから獲得した領土の放棄と無条件降伏の要求に応じることが出来ず、本格的な講和交渉に入れないうちにずるずると追いつめられていったようです。

    さて以下は、まったくの憶測ですが、この過程にトルコが絡むシナリオを二つ考えてみました。

    1)ソ連の宣戦布告を目前に控えて、ブルガリアは内密に対米英降伏と米軍によるブルガリア占領を求めた。しかしアメリカはブルガリア占領に回す兵力はないと拒否。そこでトルコに連合国に加わってもらい、アメリカ軍の代わりとしてトルコ軍にブルガリアを占領してもらうという案が出たが、ソ連との対立を避けたいトルコは拒否。というシナリオ。
    2)祖国戦線によるクーデタ時に、新政権側が「旧政権はトルコと結託し、トルコによるブルガリア占領を計画していた」といって、国民の反トルコ感情を反旧政府感情に結びつけようとした。

    役に立たないレスですみません。
    しかし、バルカンって確かに複雑怪奇ですね。
    カンタニャック

  8. カンタニャックさんありがとうございました。
    大戦末期のブルガリアの外交についてよくわかりました。
    ルーデンドルフ

  9. >7 の訂正
    誤 44年8月27日 ルーマニア首相交代 セルビア、マケドニアからのブルガリア軍の撤退を表明。
    正 44年8月27日 ブルガリア首相交代 セルビア・マケドニアからのブルガリア軍の撤退を表明。
    でした、もうしわけございません。
    カンタニャック


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