258 |
「勝利は、ほとんど栗田提督の掌中にあった・・・」とレイテ海戦最大の山場を振り返ってマッカーサーは記録して( いたと思いますが )なぜ栗田艦隊はレイテ湾に突入ぜず反転したのか?いろいろな本でも謎と言われているのですが、やはりどうしても理由を知りたいのですが・・・・ みや |
みや
BUN
恐らく出所だと思いますけどね…。
これの違法的復刻版でも作るか…(,_'☆\ バキ
大塚好古
戦前の評価
昭和天皇は、昭和20年4月30日、次の御下問を軍令部に行う。
「レイテ作戦に於ける水上艦船の使用不適当なりや否や」
宇垣第二戦隊司令官の「戦藻録」によれば(X日とは、10月25日のこと)、
「X日たる本日の決戦は大体を通じ損害と戦果と釣り合はず。而も敵の上陸を追ひ払ひ得ず。失敗に帰したるは本戦争の運命に多大の決定権を与へたりと斷ず」とある。
中島親孝GF情報参謀は、12:26の栗田艦隊の反転電報を受けて、GF司令部での雰囲気を「幕僚一同、唖然としてなすところを知らなかった」と述べている。
以上勝利を伝えられているレイテ沖海戦の関係者の評価・感想は決して良好なものではなく、謎の反転との評価の下地にあったことは確かです。特に昭和天皇は水上部隊(栗田艦隊)の行動を不適当と思っていることは注目に値します。
戦後の評価
栗田長官の昭和24年12月10日の陳述書によれば、その第15項で次のように言っている。
「レイテ沖合戦で私の確認した戦果は撃沈空母一、巡洋艦一であつた。又当時の情況に於ては第十戦隊の報告した誇大戦果も同戦隊が確認したものではないやうであつたが之を否認する資料はもつてゐなかつた。
総じて私としては部隊の挙げた戦果は大した事なしと云ふ様であつた。」
豊田副武GF司令長官の昭和24年7月13日の口述書の39項によれば、レイテ沖海戦の総括としてつぎの結論を述べている。
「遂に当初の目的を達することを得ずして、多大の水上兵力を喪失し、残るも多くは傷き、爾後海上部隊による能働作戦の企図は、その可能性なきに至った」
この二人のコメントは、戦後海戦の結果を知ってからの話であるからそのまま受け取れないが、少なくとも当事者の見解として注目すべきです。
なお、引用出典は省略します(必要とあれば開示しますが)。
半可通
本に書いたありました(今はその本なくしましたが)
これは、襲撃を受けた米輸送艦隊の通信士が機転をきかし近くに空母がいるように演じたから
とかいてありました。
富嶽
栗田艦隊の行動に対しての不満は当初から存在していたであろうことも否定しませんが、当時の軍令部は全面的な批判を行える立場にはなかったことでしょう。レイテ決戦が終息に向かい、敗戦が明らかとなった時点での軍令部からの栗田批判というのは、レイテ沖での栗田長官の振る舞い以上に筋の通らないものでしょう。私にはその手の回想は豊田長官(この方の回想は特に)のものも含めて、どこか後知恵のような印象を受けます。
また、昭和天皇はこうした作戦の終了後の評価において、実にしばしば極めて適切な発言を残していますが、それは昭和天皇の聡明さを表すものではあっても、作戦当時の評価とは言いがたいものがあります。
BUN
撃沈したと信じられていた筈です。
で、「楽観的」になってレイテ決戦にもつれ込んだんではないですか??
あと、昭和天皇の水上艦隊への作戦指導に対する評価は、反転云々ではな
く、航空機の援護がない艦隊を突っ込ませるのはどうか?という趣旨であ
ったと思いますが??
tackow
tackow
BUN
一般の書物では直ぐに探せない情報を得られ感激しています。
その後の大和の沖縄特攻を考えると、レイテ湾で活躍できたのでは・・・
と非常に残念に思う次第です。
みや