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239  1939年9月ドイツとソ連がポーランドに侵攻しました。
ドイツに対し英仏が宣戦を布告しました。これは1939年8月英仏対ポーランド援助条約によるものだと思うのですが。英仏がソ連に対し宣戦布告しないのはなぜでしょうか?
 また英仏対ポーランド援助条約が一月遅れていても、英仏は宣戦布告したのでしょうか?

 あと日本に対するABCDラインには仏領インドシナを占領されたフランスが参加してませんがやっぱりFだから何でしょうか?。ABCDライン結成の月日がわからないものの自由フランス政府もありましたし、パリ占領後に仏印に侵攻してますし。
 (質問を二つで書き込みするかまとめるか迷いましたがまとめることにしました)
 どなたかご教授お願いします。
lain

  1. 第一の質問ですが、37年頃からの当時の国際情勢を考える必要があります。チェコへの進出などのドイツの拡張をくい止めるため、英仏とソ連との間で対独包囲連合を組む構想について外交交渉が行われてきましたが実を結ぶことなく、39年8月23日に独ソ不可侵協定が結ばれてしまいます。スターリンは、英仏が対独戦争に本格的に取り組む意欲が無いと見たこと、ドイツとの争いの元を作りたくなかったこと、それに共産主義拡張の野望から、外相をリトヴィノフから対独協調派のモロトフに代え、今までの姿勢を180度変更してしまったわけです。
    そして、ドイツがポーランドに侵攻した後、9月17日にソ連も東部国境の安定などを口実として同国に侵攻しました。もちろん、この時は独ソ間でのポーランド分割の約束は極秘にされていました。結局、英仏は外交においても全く手詰まり状態で、対ソ宣戦布告も検討したとは思いますが、これ以上、敵を作りたくなかった、またソ連に一縷の望みを捨てきれなかったということではないでしょうか。
    なお、この当時、アメリカは中立国であり、中立法を改正しイギリスへの戦争援助が始まるのは同年10月頃です。当時の英仏政権のドイツに対する優柔不断な姿勢、特にフランス国内に広まっていた厭戦意識とも関係しているのでは。
    アリエフ

  2. >ABCD
    建前として日本はフランスの朋友です。

    日本軍の行使できた権限も基地使用権・軍隊通行権のみに限定されていて
    徴税等の行政権はフランスに帰属し(というよりも全くの手つかずで)
    日仏間は寧ろ仏印の領土保全を保証した防衛協力を結ぶ程でした。

    ですから日本は仏印を占領・支配したわけではありません。
    その様な意味では仏領を“侵攻”し征服したのは英(米)連合軍です。
    (ドイツ軍でもありませんでした)

    マダガスカル島へ特殊潜行艇部隊を派遣し攻撃しましたが、
    これも仏領マダガスカルを英軍が攻撃をしていてその部隊に対する攻撃であって
    地上ではフランス守備隊が「侵略者」に対して抵抗を続けていました。
    そもそも、この攻撃もフランス側の通報を受けて日本軍が攻撃隊を送ったのです。

    取り敢えずここまで。
    かっぱ

  3. >そもそも、この攻撃もフランス側の通報を受けて日本軍が攻撃隊を送ったのです。

    こう書くとあたかも日仏間に堅固な軍事協力関係が存在したかの如き誤解を招くと思い追補します。

    マダガスカルの場合、単に敵の敵は味方ということで、敵軍(英軍)情報を故意に漏らすことによって日本軍の攻撃を招致し
    (日本軍にしてみるとマダガスカル島ディエゴ・スアレス港はアデン・ジプチと同列の目標の一つに過ぎなかった)
    仏領を攻撃中の敵軍を追っ払ってもらおうとしたわけです。
    つまり互いに利用(しようと)したというレベルのものといって差し障りがないと思います。
    (仏印での協定に基づいた協力は別)

    大戦中の日仏関係とはあまり注目されなませんが、非常に興味深い事例の宝庫でもあります。

    ・フランス側から見たFS作戦
    日本軍の開戦攻勢も一段落したころフランスはどうやら日本側が南太平洋方面に新たな作戦を企画しているらしい、
    との情報をキャッチしました。

    作戦地区には仏国海外県が存在し(タヒチとかニューカレドニアとか)
    かつ当時、同島は米豪連絡にしてソロモン・ニューギニアと豪国の連絡線の側面に位置するという戦略要衝でした。
    米国はそこの基地使用権・駐兵権を真珠湾攻撃後にドゴール側と交渉して成立させてしまっていました。
    仏国は驚いて米国に抗議し説明を求めました。

    つまり日本軍は強大(らしい)である。同島はドゴール派で英米と行動を共にしている。
    拠って日本軍がそこを攻略、少なくとも攻撃をかけることは想像に難くない。
    そこで仏国政府は駐日大使に“仏主権”に関する協議を命じました。
    これに対して日本側は同島攻略に際し事前に連絡はするかも知れないが、協議は出来ない。
    何れにしろ“軍機”に属するもので教えるつもりはないと東郷外相は答えました。

    “仏国主権”に関して事前の通告が無い(無視)→対等な外交関係が崩れる
     そんなことは(周囲を日本の勢力圏内で孤立している)今日の仏印の存亡にかかわる。
    ということで色々議論が実際にありました。

    日本軍と一緒に攻撃に加わるべきではないか?
    いや、あくまで独自の指揮権を保持するべきで“解放”は独力で実施すべきだ!
    しかし、それらを実施するには仏印単独では無理で日本軍の協力無しでは実行不可能・・・
    などなど・・・
    要は正式な軍事協力・情報共有関係ではなかったので、あくまで推理推論、仮定での議論でしたが。

    現実にはFSラインの攻略とは日本の攻勢極限を遙かに越えたオペレーションであって、
    そのトーンも対豪遮断・封鎖と一段階低いものとなり、
    交通路攻撃程度の実施を目指すというのが落としどころになりました。

    日本軍の強さに幻惑された例として、「味方が騙される(誤解する)」のは
    何も「陸海軍」間に限られたことではなく各方面に、
    当然、国際関係にも影響されます。(日本も“無敵ドイツ軍”を信じ切っていたですし)

    この様に国際関係学的にも第二次大戦とはまだまだ研究・考察の余地がある再評価の対象なのですね。
    かっぱ

  4.  ありがとうございました。
    日本軍が二次大戦中にマダガスカルまで出かけていたとは驚きでした。
    lain


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