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225  日本軍のオーストラリア侵攻作戦について、まったくわかりません。
どなたか簡単な解説をお願いします。

今のところわかったことは、

1.海軍にはこのような作戦は無い。したがって陸軍が行ったものと思われる。
2.台南空がポートダーウィンを爆撃したという記述があるが、
 ラバウルからダーウィンの攻撃は不可能と思われる。
3.スンダ列島の東端に位置するチモール島に陸軍の飛行場が
 あったと思わせる記述があり、ここからならダーウィンの攻撃は可能と思われる。
4.敵側の記述に従えば、攻撃隊は双発爆撃機であり、
 おそろしく性能のいい戦闘機に護衛されていた。
5.時期は不明ながら、昭和18年前半がピ−クであったと思われる。

以上です。
どんべ

  1. 航空機の634に関連の内容がありますので手始めにそこからどうぞ。
    BUN

  2.  1942年2月 日本空母機によるポートダーウィン攻撃にはじまる海軍機の空襲が行われました。(この攻撃についての詳細は、私は存じません。)

     1943年6月20日 チモール島ラウテンから、六十一戦隊の百式重18機は、五十九戦隊の一式戦二型22機、に援護され出撃、さらに七十五戦隊の九九双軽9機も合同しました。スピットファイア(46機)の攻撃を受け、太田機、松原機を失いながらもポートダーウィン飛行場に50キロ爆弾を投下しました。六十一戦隊は撃墜13機を報告し、援護の「隼」は撃墜25機に損失1機。この時に迎撃したスピットファイア飛行隊は、撃墜11機をあげたとされています。「呑龍」の実質的な初陣であり唯一の大編隊での作戦でありました。

     1943年6月22日 五十九戦隊の「隼」がポートダーウィンに単独進攻し、六十一戦隊の3機がポートダーウィン北北西200キロまで飛んで、金属片を散布しレーダーを妨害するとともに、囮となりましたが、重爆も戦闘機も敵機に遭いませんでした。

     1943年6月23日 「呑龍」7機でブロックスクリーク飛行場を爆撃し、空戦もなく全機帰還しました。

    以上で陸軍によるオーストラリア攻撃は終わりを告げました。

    roth

  3. 3空(後の202空)が陸攻隊とポートダーウィンに進攻していることは
    結構有名なはずなんですが。チモール島クーパンからの発進です。
    KI-100

  4. この件については中公文庫「太平洋戦争六大決戦(下)過信の結末」秦郁彦著
    第八章ダーウィン上空の零戦 を読まれるとよいでしょう。
    KI-100

  5. 我が軍のポートダーウィン空襲で最も規模が大きいのは昭和17年2月19日
    の空襲でしょう。
    赤城、加賀、蒼竜、飛竜から計188機がポートダーウィンを空襲してます。

    艦船を中心に相当の損害を与えたのですが。今、資料を読める状態にないので
    詳細は詳しい人に譲ります。
    tackow

  6. Aの文献です。
     
    『陸軍重爆隊』 伊澤保穂 著 新戦史シリーズ(文庫版)
             樺ゥ日ソノラマ 1996年 
      P254〜258 ポートダーウィン攻撃 の要約です。
      
      単行本も有りますが今手元にありませんので記載できません。

    どんべ氏のお考えは、海軍の件を除いては、ほぼ正鵠を得ておられたのではな  いでしょうか?
    roht

  7.  皆さん有難うございました。

    >結構有名なはずなんですが。

     厳しいです。言い訳します。
    零戦および日米海戦史がらみの本は十数冊あるんですが、
    どれにも載ってなかったんです。

    >最も規模が大きいのは昭和17年2月19日の空襲でしょう

     これに関しては、概要はつかんでいます。
    これよりは規模が小さかったという事ですね。
    どんべ

  8. 中公文庫「太平洋戦争六大決戦(下)過信の結末」秦郁彦著が入手できなければ、
    光人社「零戦 最後の証言II」神立尚紀著 が発売されたばかりです。
    元202空飛行隊長でポートダーウィン空襲参加者の証言が記されています。

    KI-100

  9. A補足 6月22日の五十九戦隊の攻撃機数は、「隼」20機でしたが、空中にも地    上にも敵機の姿は発見できませんでした。

        文献『日本軍用機航空戦全史 第一巻』秋元実 著 P474
                          グリーンアロー出版社 平成6年
    roht


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