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221 最近、映画の「太平洋奇跡の作戦キスカ」を見て思ったのですがキスカに残された
2匹の犬はその後どうなったのでしょうか。それと連絡参謀を送り届けて沈んだ潜水艦の名前が気になります。知ってる人がいたら教えて下さい。
かかし

  1.  キスカの犬は米軍の上陸時に捕まったはずですが、以降のことは分かりません。
    (ところで昔からあの映画で不思議なのは「爆弾が来たら逃げるんだぞ」と言われつつ
    実は犬が鎖につながれている点だったりする(笑))。

     あと潜水艦の方は「伊七潜」て名前が映画の中で出ていたと思いましたが…。
    大塚好古

  2. 映画は観てないんですが、アッツ島に取り残された軍用犬は何匹いたのでしょ
    う??手持ちの資料では「勝号」とか「正勇号」とかの名前が確認できますが・・
    あと、米軍に救出されたのは3匹でしたか?

    潜水艦は、多分「伊七」ではないでしょうか?
    米軍は6月11日から駆逐艦による対潜哨戒を実施しており、そのため我が軍
    は伊二四、伊九を喪失し、伊七も喪失していますが。映画に出る様な状況とす
    れば伊7と思います。
    tackow

  3. 米軍が発見したということは、あの爆撃の中犬は無事だったんですね。よかった、
    よかった。あのとき沈んだ潜水艦は伊7ですか、沈むところが悲しかったです。
    あと、あの映画を見て髭の木村昌福提督が、髭のない架空の人物になっていたのが
    残念だったけど、なかなか面白かったです。


    かかし

  4. この映画、私もテレビ放映されたものを観た記憶があるのですが、何分にも
    15年は前かとおもいますので、細かいところに関する記憶までは定かではあ
    りません。たしか、潜水艦(潜水艦長役は佐藤充?)に搭乗、キスカ島に辿り
    着いたところで爆撃を受け、連絡参謀は辛くも魚雷発射管から脱出したもの
    の、その直後沈没、といった感じだったように思いますが、その「連絡参謀」
    の職名とか、連絡の内容など、映画ではどうなってましたでしょうか? 映画
    は史実を元にしていることは事実ですが、必ずしも史実との一対一対応がと
    れるとも限りませんので、敢えて史実面からの考察をする上でお聞きしたい
    と思うのであります。
    今泉 淳

  5. ↑国友参謀(役名)の職名は第五艦隊作戦参謀、連絡内容は艦隊の投錨予定時刻、それに伴う
    部隊集結時間の指示、撤収作業時の大発の割当て/作業指示…てとこでした。(家が近ければビデオを
    もってお伺いするんですけどね(^^;)。
    大塚好古

  6. ↑はは、なるほど。ということは、そこまで細かい内容が決まって
    以後、それを現地に知らせるために「第五艦隊参謀」が派遣された
    ことになっているわけですね。ありがとうございます。

    映画は映画、史実は史実ということで、ちょっと考察してみたいと
    思います。
    今泉 淳

  7. 今泉さん、戦争映画にひと味添えてくれる脇役は佐藤「允」です。
    BUN

  8. ↑おお、済みません。仰せのとおりです。「潜水艦長」ってのは正しいかったですよね?
    今泉 淳

  9. 史実と映画の世界は分けて考えるべきだと考えますので、とりあえず史実的側
    面から考察することにします。

    まず、「第五艦隊作戦参謀 国友大佐」の件ですが、これに該当するような人
    物が誰であるかを考えてみます。

    当時の「第五艦隊司令部」の職員全員の官姓名などは必ずしも知り得ませんが、
    昭和18年5月頃の第五艦隊の主要職員並びに配置は、以下の通りと推定してお
    ります(主として戦史叢書「北東方面海軍作戦」より。以下、主として同文献
    に依ります。一部戦史叢書「潜水艦戦」も参照にしていますが、潜水艦に関す
    る記述は両者ともほぼ同等と考えて良いと思います)。

    第五艦隊
    司令長官 中将 川瀬 四郎 (海兵38)
    参謀長 少将 大和 田昇 (海兵44)
    首席参謀 大佐 高塚 忠男 (海兵49)
    航海参謀 少佐 江本 弘 (海兵55)
    砲術参謀 少佐 木下 甫 (海兵57) S17.6.9まで
    少佐 松永 力 (海兵56) S17.6.9より
    航空参謀 少佐 三浦憲三郎 (海兵56)
    通信参謀 少佐 橋本 重房 (海兵57)
    機関参謀 機少佐 阿部 勝 (海機36)

    なお、江本航海参謀は、5月29日にアッツ島で戦死しております。この件は後
    で関係してきますので後述します。

    参謀に対する配員として、高塚大佐以外の大佐の配員はなかったと思われます
    し、作戦参謀も置かれていなかっただろうとするのが私の推測です。

    すなわち、「国友」「作戦参謀」の両者に関して、史実的側面からの考察は否
    定的推測を与えているのですが、ではもうちょっと解釈の幅を広げて、当時の
    北方部隊内で「潜水艦によって」「参謀を派遣した」ような事実があったかと
    いう面について考えてみたいと思います。

    まず、北方方面において潜水艦にて参謀が移動したりすることはそれなりにあっ
    たことが記録されていますが、その一例が上で触れました江本弘少佐もその一
    人であり、4月20日に補職後、アッツ島に現地視察及び指導のために派遣され、
    5月10日に上陸したとあります。この直後の12日に米軍の上陸があるわけです
    が、12日に江本参謀発の電報があることから、概ね11日以前に上陸していたこ
    との裏付けにもなるかと思います。

    では、映画にあるように、撤退作戦の細目に関して、第五艦隊や第一水雷戦隊
    の参謀が現地にそれを伝達するようなことがあったかどうかです。実はこれは
    以前から私も疑問に思っていたことではあるのです。そこで今回、色々考えて
    みましたが、現在のところ否定的な立場に至っております。以下に、その考察
    の概要を拙いながら著してみました。

    ケ号作戦は、大きく分けて第一期作戦と第二期作戦の二期に分けることができ、
    前者が潜水艦による撤収、後者が水上部隊による撤収ですが、一期作戦は5月
    30日に発令された機密北方部隊命令作一一号、同一二号に依るものですが、そ
    れを承けて 6月10日に現地キスカ島では北海守備軍司令官と五一根司令官の協
    定が行われ、その連絡のために北海守備隊参謀藤井一美少佐と五一根参謀安並
    正敏中佐(海兵50)が、6月16日にキスカ発、20日に幌筵に到着したとあります。
    なお、戦史叢書の別の部分には6月16日幌筵着とあり、記述が一貫しておらず、
    一考の余地があるように思いますが、これは後で考察します。

    この一期作戦に対して、キスカ島の現地部隊は潜水艦のみならず水上部隊によ
    る一挙撤収も希望していた模様であり、同時に6月初旬頃にGF司令部より小池
    参謀が第五艦隊に派遣され、第五艦隊司令部も具体的な方策を検討するに至っ
    たのが、概ね6月中旬頃のようです。

    ちょうどその頃、第一水雷戦隊司令官森友一少将(海兵42)が脳溢血で職務を続
    けられなくなり更迭され、後任として木村福昌少将(海兵41)が補職されていま
    す。で、「シチヨシカシカセサラ」の信号によって来艦を求められ、旗艦那智
    にて第五艦隊司令部より腹案が示されたのが、6月14日ではないかと思われま
    す。

    一方潜水艦による撤収作戦のほうですが、伊二十四潜、伊九潜が消息不明の接
    した北方部隊潜水部隊指揮官(第一潜水戦隊司令官)は、17日に行動中の潜水艦
    に一時待機を命令(北方部隊潜水部隊電令作四五号)、18日輸送再興を企図(電
    令作四九号)した直後、21日に伊七潜がキスカで潜航不能、22日に座礁するに
    至って、電令作五五号にて輸送作戦中止のやむなきに至っています。

    さて、件の「伊七潜」ですが、映画ではこの潜水艦によって「連絡参謀」が上
    陸したことになるらしいですが、伊七潜の行動は6月15日0930幌筵発であるこ
    とが戦史叢書にも記載されており、これが事実だとすれば、「連絡参謀」は6
    月15日以前に乗艦、「連絡内容」は6月15日以前に決定されていなければなり
    ません。第一水雷戦隊司令官が第五艦隊司令長官に伺候したのが上記のように
    6月14日、それを承けて一水戦内での検討が行われたと考えられ、17日に「第
    五艦隊司令部ニ於テ一水戦司令部ト協議」、21日に「第五艦隊司令部ニテ打合
    セ、五一根先任参謀出席」、23日に「打合セ、第五艦隊対策基礎決定ス」とあ
    り、15日に実施細目が決定したとはやや考えにくい状況のように考えます。な
    お、22日に潜水艦の輸送中止他の経緯から、23日には作戦計画が内定していた
    と戦史叢書は判断しています。

    ちなみに、安並、藤井両参謀がキスカから乗った潜水艦は、幌筵16日着なら、
    伊一七一潜により11日1940発、幌筵20日着なら伊一五六潜により16日1700発と
    いうことになりますが、いずれとも判断しかねるところです。

    ところで、この辺りの事情は、当時第一水雷戦隊先任参謀有近六次中佐(海兵
    50)が詳細な手記を残しており、偶然手元にそれがあって参照することができ
    るのですが、各種側面から必ずしも信を置けない部分があり、特に日時に関し
    てはそのままトレースすることがためらわれます(というか、日時は細かく記
    されていない)。一応そのことを念頭にしますと、一水戦司令官の第五艦隊長
    官への伺候の後、安並参謀がキスカから到着したとあるのですが、そうだとす
    れば、16日幌筵着ということになります。ただし、上記のように有近参謀の手
    記に関しては全面的に信を置くことができないので、これ以上の推測があまり
    意味を持たない気もします。ただし、21日の打合せには参加しているので、20
    日幌筵着でも辻褄は合うことになります。

    で、私は映画に登場する連絡参謀は、この安並参謀ではないかと想像していた
    のですが(正確には「安並参謀がキスカに戻るところを描写したのではないか
    と想像していた」)、安並参謀がキスカに戻ったような記述は手持ちの文献に
    は存在しません。

    有近参謀の手記には、一度安並参謀がキスカに戻り、再度幌筵にやってきたか
    のように記述がされておりますが、伊七潜以降キスカへ潜水艦が到着した記述
    が無く(と思う)、よって安並参謀がキスカには戻っていないのではないかと邪
    推するものであります。また、手元にある文献には、「昭和18年7月7日」に撮
    影されたとする、第一水雷戦隊の幹部が写っている写真が掲載されていますが、
    これにも安並参謀が写っていますので、撮影日時や写真のキャプションが間違っ
    ていなければ、7月7日現在幌筵にいたのではないかと思われるわけです。また、
    仮に安並参謀がキスカに戻ったとしても、21日に打ち合せに参加している事実
    がある以上、幌筵を22日以降(21日の可能性も無きにしもあらずですが)に出発
    していなければならず、そのような潜水艦が無かったことから、この線も消え
    ます。

    勿論、第五艦隊参謀がキスカに派遣された事実も無いと信じますし、藤井参謀
    は自身の手記でキスカには戻らず幌筵にあり、また水雷部隊の出撃時にはこれ
    に便乗していた旨の記述がありますので、この人もキスカには戻っていないこ
    とになります。

    ちなみに、「では作戦の詳細をどうやって現地に伝えたか」という疑問が残る
    のですが、これについてはまだこれと言った確たる推測は出来ておりませんが、
    少なくとも両参謀が幌筵にあった可能性がかなり高い以上、暗号で知らせたの
    かなとも思います。

    以上が一応の推測ですが、小生の知らぬ史実などがあれば、もとよりこれら記
    述内容に拘泥するものではございません。また、手持ちの資料には限界がある
    ため、事実の追求にはかなりに甘さがあることも事実ですので、とりあえず
    「手持ちの資料での考えられる範囲内の考察」という位置づけで捉えていただ
    ければ幸です。
    今泉 淳

  10.  何かの映画雑誌にて,あの犬は,戦後,飼い主に返還されたという話を読んだような記憶があります。あくまでも記憶ですが。
    ツカドン


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