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戊辰戦争で東北諸藩が敗れた理由の一つに、よく火器が劣悪だったことが挙げられています。 しかし、史料を検討すると、ミニエー銃クラスの装備が普通であって、新政府軍とそれほど大きな差はなかったように思います(あえて、火器の差があったとすれば大砲のような大型火器だったと言えます)。 私は、火器の差よりも戦術の差が勝敗に繋がったと思います。東北には新政府軍に比べて戦術に長じた人物が少なかったことが、戦闘面での主な敗因だったのではないでしょうか。皆様のご見解を賜りたく存じます。 高橋 |
BUN
畝傍
BUN
庄内藩(今の山形県酒田市・鶴岡市周辺)なんかです。で、様子を資料で見るに、
庄内藩は洋式の装備、戦法(笛での進退主体)、軍装ですが。秋田藩は刀、槍、火
縄銃主体の装備で、戦法も陣鐘、陣貝、陣太鼓を用いる旧来の(関ヶ原と同様な)
戦法を用いており、洋式銃と笛を用いる戦法を使ったのはごく僅かな部隊に過ぎな
いようです(これとて、薩長や肥後の援軍の指導?)。
従って、奥羽東北諸藩だからといって洋式の装備・戦法を用いていない。と言うわ
けではないのです。
また、洋式対和式(^^)の評価ですが、戦意なども影響するので一概には言えない
と思います。
ただ、秋田藩での戦いにおいては我が秋田軍は負けまくっているのは否定出来ませ
ん。西南諸藩の援軍がなければボロ負けだったでしょう・・
tackow
ては一応フィードバックがあったと思われます。
大型の火砲ですが、確かに佐賀から秋田藩に持ち込んだ大砲が威力を発揮した、
という記録もありますけれども。個々の戦闘はともかくとして、それだけが戦争の帰趨を決した訳ではないでしょう。
やはり、全体の流れ。でしょうか。
tackow
西洋式の戦術を理解していたことと実践できるかどうかは、やはり別物だったのでしょう。列藩側には、武装面でもかなり充実していた藩や部隊も存在していましたし、ロシアや旧幕府から購入した大砲なども実戦に投入していたようです。それでも敗れているのですからね・・。
高橋
新政府側は薩摩・長州・土佐・佐賀の主力4藩が最新装備だった。
庄内や長岡がミニエー銃でもねえ・・・
くらま
基本的にあの戦争は、装備の差や、戦術云々はあまり重要な要因ではなく、戦争全体として、負ける戦争を戦ったから負けた、というのが常識的な見方ではないでしょうか。詳細は関連図書に当たれば理解できると思います。
BUN
点は、鎧兜に比べて沼沢地での移動が迅速に行える事があった様です。
>8
そうなんですよ。以前は結構嵌ってたんで、戦場跡や史跡、西南諸藩士の墓な
んかを巡ったりしたものでした・・他の県の事はさっぱりですけどネ。
以下、余談
「国民戦争」の側面を持っていないのは事実なんですが、数年前に戊辰戦争の
シンポジュームが角館つう町でありまして。萩市長と会津若松市長が来訪され
たのですが「仲の悪さ」が印象的でした。なんでも10年ほど前に「会津若松
市と友好関係を結ぼう」とか言った方が相当に批判されて市長選で落っこちた
とか・・
その割に我が県は領地の2/3が戦乱に巻き込まれた割にはのんびりしてるっ
ていうか・・県民性なんかな?
tackow