213 |
北一輝、西田税、磯部浅一は、なぜ民間人にも関わらず軍法会議で裁かれたのでしょう。戒厳令が布告されたからで正しいでしょうか? Sampon |
あの事件は昭和天皇陛下を激怒させたものですから、
関係者に厳しい処断が下されたのでしょう。
特に身内=軍関係者をかばう意味からは、
民間人を厳罰に処すのが都合良かったからではないでしょうか?
勝井
当時の軍部(と言っても、二二六事件の頃の軍部って、何が主体なのか良
く分かりませんが)の思惑は手元の資料では分かりませんが、軍法会議そ
のものは、現役軍人軍属およにそれに準じる者(召集軍人、俘虜、戦時・
事変に際し特定の犯罪など)の犯罪に対する裁判件を与えられており、ま
た陸海軍刑法所定のものにも限定されません。
ただし、二二六事件の際に開設されたのは、軍法会議法に依るものではな
く、戒厳令下において緊急勅令(二十一号、昭和11年3月4日)によって開
設された特設軍法会議たる「東京陸軍軍法会議」であり、戦地や戒厳令施行
下において開設される特設軍法会議では常人(民間人)を裁くことも可能で
ありました。よって、特設軍法会議であろうがなかろうが西田、磯部、北を
裁くことは可能だったことになります。
私見ながら、本件の場合は戒厳令下における特設軍法会議の定めるところに
よって処理されたものとみなすのが自然なような気がします。
ちなみに。西田税は陸士34期出身の騎兵将校でしたが怪文書事件で失官、
磯部浅一は陸士38期出身で後に主計将校に転じましたがやはり後に失官と
なっていますので、事件の時点では「常人」ということになるかと思いま
す。
より明確に書かれている文献をお持ちの方、あるいはこの手のことにお詳
しい方にフォローをお願いいたします。
今泉 淳
舞弥
そうでしたか。では、再度確認してみます。ちなみに、上記のような
記述があった文献をご教示頂ければ幸いです。
今泉 淳
の特定犯罪に対する裁判件に関する記述が抜けてますね。そう書こうと
思ってミスってました。
> よって、特設軍法会議であろうがなかろうが
と書いたのは上記記述を前提にしていたからでした。
今泉 淳
舞弥
Sampon
はい、仰せのとおりこの本は持っていますし、かつそれほど重要視している
わけでもないですが、一応参照はしております。ただ、西田の件は、秦郁彦
編「日本陸海軍総合事典」のほうでチェックしたところ、大正14年5月に予備
役編入、大正15年5月から昭和2年2月まで怪文書事件で収監、昭和5年10月に
判決が出されそこで失官とあったので、一応こちらのほうを採用した訳です。
怪文書事件の際の裁判に関しては知るところはないのですが、本書の記述を
信じるならば、裁判中は予備役少尉だったことになります。ただし、この本
にもマイナーな誤りがあることは分かっていますので、これをして絶対に正
しいと主張するものではありません。
職場の図書館を探してみましたが、何分にも所蔵図書が多すぎて載ってそう
な文献にたどり着きませんでしたので、後日時間があったら再度調査してみ
ようと思います。
今泉 淳
たが、傍証を見つけました。
まず、西田税に対する「聴取書」(昭和11年3月8日付)に、本人による陳述
の内容が記されており(高橋正衛編「現代史資料(5)」、みすず書房、昭和
39年1月25日発行)、官公吏ではない旨や学歴や経歴などが分かります。そ
れによれば、「大正14年6月病気(肋膜炎)の為依願予備役仰被付」とあり、
免官などの事実は記載されておりません。
また、昭和11年2月29日付の警視総監発の各方面宛の、西田と山本(又)の
手配電報(栗屋、小田部編「資料日本現代史」9、大月書店、1984年1月23
日発行)には、「予備役騎兵少尉西田税及予備役陸軍少尉山本又ノ両名ハ」
とあり、東京を脱走して満州に渡るかも知れない旨通質、手配検挙を依頼
する旨の内容が記されています。上記の部分にははっきりと「予備役騎兵
少尉」とあり、「元騎兵少尉」などとしていないことからして、当時西田
はまだ予備役騎兵少尉であったとみなすのが妥当かと思います。
以上、調査結果の報告でした。
今泉 淳