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199 日露戦争は、防衛戦争だったのでしょうか?
それとも、侵略を考えた戦争だったのでしょうか?
誰か教えて下さい。
児島 義明

  1. 「侵略」の成果を「防衛」するための戦争でしょう。
    とりあえずの性格としては防衛戦争としていいのではないかと思います。
    日韓併合と日清戦争とで得た成果が、ロシアとの利害係争の原因となり、三国干渉を招き、これは日本の帝国主義政策に対する重大な脅威である、となって、極東における日本の地位の確保(とそれに伴うロシアの勢力拡大の防止)が戦争の目的だったと思います。
    つまり、日本としてはこれまでに得た権益を、直接この戦争の成果を以って拡大するつもりはなく、とにかくロシアの南進政策を食い止め、極東におけるロシア勢力を削ぐこと、に目的を絞って戦っています。(明治の人は偉いなあ)
    ポーツマス条約の内容を見れば明らかでしょう。

    まなかじ

  2.  これはある意味では大変難しい質問ですよ。だいたい太平洋戦争(大東亜
    戦争?)でさえ公式には侵略戦争か民族解放戦争か日本では見解が統一され
    ていません。(各党派、立場によって大幅に見解が違います。)簡単に答え
    が出せれば例の小林よしのりさんを巡る議論だって答えが出ているはずです。
    ですから、例えば私がどう考えるかについては返答することができますが、
    防衛戦争だったか侵略戦争だったかを教える(?)ことはできません。司馬
    さんなどはやむを得なかった戦いと考えていたようです。でも、やむを得な
    かったかどうかはやはり立場の問題といえましょう。最近読んだ本(網野義
    彦・石井進「米・百姓・天皇」)の中に次のような部分がありました。

    網野:(列強の植民地政策に対して)・・・私は負けたらよかったのだと思っ
    ているんです。
    石井:それなら植民地ですよ。
    網野:どうしても仕方なければ植民地になった方がよかっただろうというこ
    とです。同じ運命をたどっているアジアの人々を抑圧して、自分だけが成り
    上がるより、ずーっと、そのほうが人間的だと思うんですよ。

     まあ、この種の話は客観的な定義があるようでないのです。特に戦争につ
    いては社会科学的な研究が遅れていますので、戦争にはどのような性質があ
    るかというのではなく、常に政治的意義付けによってのみ意味付け(価値判
    断)がされています。
     私としてはなんと言っても戦闘がおもに清国が中立の状態で清国領内で行
    われたことは非常に意味ありだと考えています。誰だって自分の家の塀が壊
    れていたとしても、お前を助けに来たと言われても、自分の庭で勝手に他人
    にけんかをしてもらいたいとは思いません。
     さらに、偉大な明治の政治家だって日本にもっと人と金とがあったら「こ
    の戦争の成果」を拡大していたと思います。
    tk

  3. 追記
     私は国際司法権が確立しない限り交戦権は国家主権の重要な一部分だと考
    えています。たとえ自分で否定したとしても。(自衛隊の法律的根拠もここ
    にあるようですね。実際日本国憲法にああ書いてあっても、文面どおりに受
    け取っている国はないようです。)すべての戦争=悪と考えているわけでは
    ありません。残念ながらいまだに国際社会は自力救済が基本です。
    tk

  4. 日本対ロシアだけでなく、英国など各国の思惑が入り乱れた戦争です。ロシアの極東南下政策に対し中国大陸での権益を維持したいイギリスが日英同盟を組み、日本を支援してロシアに当たらせたと見ることもできる。仮に日本が戦わなくとも、英国等が極東でロシアと衝突していたかもしれない。
    アリエフ

  5. ↑1 日韓併合は日露戦争の後だったと思いますが。
    因みに私個人は日露戦争を「国体の護持のための防衛戦争」であったと思っております。
    大塚好古

  6.  ↑5、本土を狙われてないのに国体護持も糞もないでしょう。当時のロシアには日本を植民地経営する意思も能力もないはずです。もしやってしまったら、
    1)(後世にいう)ベトナム化→国内不安定化
    2)日英同盟の存在ゆえに英国(を中心とした西欧諸国)に開戦の口実を与える
    3)二正面作戦を強いられてさらに負担増→革命で帝国崩壊
    になるだろうことは明白ですから。

     確かに日韓併合は1911年ですので、1.には事実誤認がありますが、朝鮮半島における優先的(独占的)な権益は日清戦争まででほぼ確定していますから、「侵略の成果の防衛」の視点としての妥当性には問題ないと思います。

     また、なぜ朝鮮半島〜中国東北部に権益を確保したかったかといえば、資源・市場の獲得による(帝国主義世界での)国際競争力の向上と対ロシア防衛ラインの縦深化であったことは疑いようもなく、一連の政策としては侵略戦争であっても、日露戦争単体でみれば防衛戦争だったと考えることができます。

     さて、日露戦争といえばお約束の「君死に給ふことなかれ」ですが、あの詩の背景にあったのは、
    ・「東京」が始めた戦争に巻き込まれてたまるかという関西人意識
    ・「勝てない喧嘩(と思われていた)で死ぬのはつまらない」という町人リアリズム
    ではないか、との説があります。はたして明治期の一般国民が戦争目的をどう思っていたかという観点からは面白い話です(同様に日比谷焼打事件の動機を考察してみても…)。
    Schump

  7. >5
    わああ、ボケすぎてますね。朝鮮での既得権とすべきでした。

    まなかじ

  8. 敢えて言ってしまいましょう。
    日本はあの秀吉の朝鮮出兵を最後に、侵略を目的とした戦争をやっていません。
    日清・日露・日中・太平洋の各戦争は、いずれも“日本にとっては”防衛戦争でした。
    太平洋戦争で負けるまでの日本には、大国にならなければ生き残れないという脅迫観念があったのです。
    征韓論がいい例でしょう。
    2番の例にあげられている会話とは正反対の考えになりますが、
    日本は“大国に食われないためには他の小国を食って生き延びるしかない”と考えていました。
    スイスは? ルクセンブルグは? スカンジナビアの三国は? 南アフリカは?
    などという正論は彼等には見えてませんでした。
    ただひたすら、朝鮮を取らねばロシアに占領されるだとか、
    満州・中国を取らねば永久に米英の下風に甘んじることになるだとか、
    そういう被害妄想が、彼等を突き動かしていたのです。

    明治〜WW2の日本の対外政策を、誤解覚悟で単純にまとめてしまうと、こんなもんだと思います。
    FIX

  9.  ↑8、単純過ぎ。世の中、結果が問われることの方が多いのです。たとえ他に選択肢がなかった(これは私も賛成)としても、「手段として侵略を選択した」事実は消えません。かといってことさらにそれを自罰的に論じても意味がないんですが。
     「欧米列強に対しては防衛戦争だった」ことと「アジアに対しては侵略だった」ことは認識として並存しうるものですから(だからオランダの反日勢力は嫌い。お前らに帝国主義者呼ばわりされたかねーよ)。
     歴史について論じるべきは善悪よりもむしろ巧拙でありましょう(この点、ポーツマス交渉の評価は高くすべき)。変に「防衛戦争史観」を唱えるのは反日サヨク日本人の仕掛けた「善悪レッテル貼り」のワナに踏み込むも同然、わざわざ相手の土俵で戦うこともないでしょう。

    ↑5、国体護持戦争論に対して追加の観点
    1)歴史論に「国体」という政治的にエロティックなものを持ち込むこと自体思考停止。ユーゴ空爆の時にNATO諸国首脳が行った空疎な民衆向けアジ演説と同レベル。
    2)そもそも表面上の争奪対象となった朝鮮・満州の住民は大日本帝国と「国体」を共有していない(大東亜戦争中の朝鮮・台湾とは状況が違う)。
    3)日本国内でさえ、当時「皇国」概念が普及していたかどうかはなはだ疑問。確かに教育勅語や帝国憲法はあったが、元勲の一部を別として初等教育段階からこれに準拠していた人間は、まだ社会の中核をなす年代に達していない。
    4)日比谷焼打事件の趣旨も「賠償金も領土も取れなかった」ことであり、民衆レベル(一部政治家含む)の理解がむしろ「侵略戦争」寄りだった可能性を否定できない。

    Schump

  10.  本来、日露戦争が「防衛」か「侵略」かという問については「この戦争は
    正義か悪かという質問」に等しいはずです。この場合の「侵略」とは帝国主
    義政策を実行するということになるでしょう。まあ、今の時代正面から帝国
    主義政策が正しいと言う人もいないと思いますから。
     善悪を保留するという考えであればそれも結構。また、この時代は弱肉強
    食の時代で強いことが正義だとすれば、防衛行為かどうかは議論すること自
    体が無意味になると思います。条件付で帝国主義政策が許されるならば許さ
    れる範囲を明らかにして議論をすべきです。

     ですから、論じるのであれば具体的な事実から始めるべきです。
     歴史的事実としては、日露戦争の直接の原因は義和団事件のどさくさにま
    ぎれてロシア軍が満州を占領し、撤退を最終的に拒否したことにあります。
    日本政府は開戦をさけるために、対露交渉の基本方針を決定しました。内容
    を整理すると以下の通りです。「満韓交換論」と呼ばれるものです。
     *清、韓両国の独立と領土保全、両国における商工業上の機会均等の原則
     *ロシアが韓国における日本の経済活動の自由を保証
     *韓国の改革のための日本の助言と援助、さらに内乱勃発の際における日本
     の軍隊派遣を認める
     *他方、日本はロシアの満州における鉄道経営の特殊利益と内乱勃発時に満
     州へのロシアの軍隊派遣を認める

     いわば日露戦争は「満韓交換」が不成立だっために、その代わりに行われた
    戦争なのです。日露戦後、日露が親密な時代がありましたので(一次大戦時に
    は現役師団の武器をロシアに融通しています。)、存外満韓交換が成立したら
    情勢の変化によっては日露戦争がなかった可能性もないとはいえません。(日
    ソ戦争はあったかもしれないが。ついでに、日英同盟がなければ日露戦争も極
    東での英露戦争もなかったと思います。イギリスは極東に派兵するだけの兵力
    をインドには持っていませんから。そう考えると日露戦争ってうまいこと言わ
    れてまさに火中の栗を拾わされたというのが実相ですね。)
     したがって、この戦争が侵略的か否か以前に、小国であっても主権国家を当
    事者の承諾も得ず、勝手に政治取引の材料にすることが正しいかどうかから議
    論が始まる必要があると思います。

     私は歴史は後知恵で評価するべきではないと考えていますし、同時に、あの
    時代としては正しかったという議論も現在の我々がすべきでないと思います。
    (それも後知恵です。)やはり、我々が歴史を論じることは現在を論じること
    なのだと思っています。私は絶対平和主義者ではありません。しかし、道義的
    な善悪はやっぱり必要だと思います。(ここではイデオロギー的に善悪を決め
    ろとは言っていません。)

     満蒙開拓団でソ連侵入の時に命からがら帰ってきたおばあさんが、(家族が
    何人か死亡・行方不明になったようです。)
     「自分たちは極貧の生活から脱け出したくて、満州には持ち主のいない土地
    がいくらでもあると言われて入植した。しかし、行って見ると土着の人の土地
    を奪って入植したことを知った。(自分たちはあづかり知らなかった)それで
    もやっぱり非道なことまでして生きようとしたんで罰が当たってこんな目に遭
    ってしまった。」
     というような話をしているのを聞いた覚えがあります。
     そんな当たり前の感覚に私も共感します。
    また
     ドイツ革命の時の話だったと思いますが、
     「支配階級はいつでも愛国心を説くが、彼らは自分たちの立場を守るためな
    らいつでも愛国心を捨てる。」
     という言葉を聞いた覚えがあります。パリコミューンもそんな展開になって
    ますね。感想です。
     
    tk

  11. 10番のお婆さんの話ですが「持ち主がいない土地〜」って事は国や役所は一般市民を騙して植民させたって事ですよね。すると一部の人達が言ってる(国民は国家に騙されていた)論はかなり当たってるって事になるんですかね?私は(当時の人は)解ってて大陸に移住したと思っていたんですが・・・
    kabukou

  12. ↑11、私の知っている限りで答えたいと思います。
     実は満蒙開拓は大雑把に言うと満州事変を境に前後に分かれようで、前期
    は本当に荒野を開拓しようとしたようで、すべて失敗したそうです。後期は
    現住民から土地を強制収容し、村から組織的に武装組織を作り入植させまし
    た。
     質問の内容から後期開拓団に話をしぼります。
     このおばあさんの話では、気にしなかった人でも開拓団が現地に到着した
    時には強制収容に気が付いていたようです。先住者の家が壊されたりしてい
    たのを見た人もいましたから。それ以前に(応募した時点で)自分たちの植
    民先が強制収用された土地であることに付いていたかどうかはわかりません
    が、気が付いても恐らく気にしなかったと思います。
     私も実家が農地を持っているので、多少(ごくわずかです)知識がありま
    すが、土地があれば農地になるものではありません。土地は長年かかって農
    地にするものなのです。ですから、いくら土地が広くても=可耕面積が広い
    わけではないのです。このあたりは発案者(海軍の加藤寛治もその一人だっ
    たようです)は真剣だったようですが、官僚はあまりまじめに調査しなかっ
    た気配があります。(ただし、農本主義者たちはかなり真剣に調査したよう
    です。)移民たちは土地が広いと聞いただけで、もう、開発可能な土地が少
    ないとは聞いていなかったようです。気にして質問した人もいたようですが、
    現住民の農地を収用しても土地が広いから迷惑はかからないと返答があった
    ようです。
     確かに、一部土地を明渡した現地人に代わりの土地をあてっがった例があっ
    たようです。しかし、代替地がもらえても水利がなかったようです。土地を
    収用されなかった人でもかなり水利権を奪われた例があったようです。旧満
    州のような気候では灌漑用水がなければ農地にはなりません。
     後期移住者には日本国防の先兵として入植の位置付けをはっきりと持って
    いた人もいたようですし、そう教育させられました。ですから、一部の正義
    派以外は優秀民族の指導(?)のもとでが劣等民族が暮らすことは当然のこ
    とだと考えていた節があります。
     でも、植民者たちは村から組織的に移住させられていましたから、そこま
    での意識はなく、単に家族が極貧から抜け出したかったからという人も多かっ
    たと思います。私はこんな雰囲気の中でおばあさんの言葉を理解しています。
    tk

  13. なるほど、農地開拓の難しさが、地元の人達の日本への恨みを倍増させた一因だった訳ですね。有難うございます。
    kabukou

  14. 大変よくわかりました。
    ありがとうございました。
    児島 義明


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