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私の祖父は陸軍習志野化学学校というところに昭和16年から18年までいたのですが、 ここがどういったところだったのかご存じの方いらっしゃいませんか 当時の写真も数十枚残っていますが、学校でどういったことをしていたのかよくわかりません。 どんな情報でもいいのでよろしくお願いします。 敗戦伍長の孫 |
スローガンは「実地実物実体験主義」で、実際に毒ガスを撒いての演習(場所は榛名山麓の相馬原、何か縁があるなあ。独り言)が行われており、その内容は実戦的なものだったとのこと。この学校は2.26事件の際に、反乱軍鎮圧のために、くしゃみ剤である「あか一号」剤を装備しての出動も経験しています。
さらに支那事変勃発後は、生物兵器の731部隊、化学戦部隊の526部隊と共に研究を続け、「陸軍習志野学校案」なる化学戦例証集が編纂されていたとのことです。
こうして盛んに毒ガス研究を行っていた習志野学校は対米開戦後は、アメリカとの化学戦能力の差により、毒ガス研究をほとんど放棄し、一般兵器(迫撃砲など)の研究に内容をシフトして行きます。ですから、開設から大東亜戦争開戦頃までと、それ以降では、陸軍習志野学校の性格はかなり異なる、と考えて良いようです。
ただ、こうした毒ガス戦研究がある程度の実績を挙げ、抑止力として働いていたお陰で、戦争末期の日本軍は米軍の毒ガス攻撃から免れていたとの説もあり(硫黄島戦等で使用の可能性があった)、それなりに有効な機関であったのかもしれません。
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