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183 私の祖父は陸軍習志野化学学校というところに昭和16年から18年までいたのですが、
ここがどういったところだったのかご存じの方いらっしゃいませんか
当時の写真も数十枚残っていますが、学校でどういったことをしていたのかよくわかりません。
どんな情報でもいいのでよろしくお願いします。


敗戦伍長の孫

  1. 第一次大戦後の大正八年(1919年)、陸軍科学研究所の設立と共に、アメリカ式の化学戦に関する教育、研究を行う「瓦斯学校」の設立が提言され、昭和6年、満州事変の勃発と共に「化学戦学校」新設案が議会を通過し、騎兵第十連隊跡に陸軍習志野学校(秘匿のため、地名のみで化学はつかない)が設立。以後日本の毒ガス開発と運用の研究に当たっています。
    スローガンは「実地実物実体験主義」で、実際に毒ガスを撒いての演習(場所は榛名山麓の相馬原、何か縁があるなあ。独り言)が行われており、その内容は実戦的なものだったとのこと。この学校は2.26事件の際に、反乱軍鎮圧のために、くしゃみ剤である「あか一号」剤を装備しての出動も経験しています。
    さらに支那事変勃発後は、生物兵器の731部隊、化学戦部隊の526部隊と共に研究を続け、「陸軍習志野学校案」なる化学戦例証集が編纂されていたとのことです。
    こうして盛んに毒ガス研究を行っていた習志野学校は対米開戦後は、アメリカとの化学戦能力の差により、毒ガス研究をほとんど放棄し、一般兵器(迫撃砲など)の研究に内容をシフトして行きます。ですから、開設から大東亜戦争開戦頃までと、それ以降では、陸軍習志野学校の性格はかなり異なる、と考えて良いようです。

    ただ、こうした毒ガス戦研究がある程度の実績を挙げ、抑止力として働いていたお陰で、戦争末期の日本軍は米軍の毒ガス攻撃から免れていたとの説もあり(硫黄島戦等で使用の可能性があった)、それなりに有効な機関であったのかもしれません。
    BUN

  2. 陸軍習志野学校史編纂委員会編「陸軍習志野学校」という本があるそうです。また、丸別冊「戦争と人物11巻 軍事テクノロジーへの挑戦」に記事があります。「習志野市史」1巻、4巻にも簡単な記述と資料があります。図書館等でご覧になってはいかがでしょうか。
    tomo

  3. うわぁ、地元のことなのに何もしらねぇ。お恥ずかしい。
    Schump

  4.  ふっふっふ。じつは私も元軍都(マイナーだけど(^_^;))習志野市在住の身。たしかに、学校では習志野学校については全く教えてもらえませんでしたね。京成電鉄と関係の深い鉄道連隊や、習志野命名のエピソードの残る習志野演習場ぐらいしか触れられませんでした。近衛騎兵連隊駐屯の事実などは「修羅の波濤8巻」(シュミレーション戦記)を読むまで知りませんでした。
    tomo


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