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174 坂の上の雲を読み終わったとこなんですが司馬遼太郎さんは日露戦争は祖国防衛戦争だといっていますがみなさんはどうおもいますか?それと私は旅順攻略の時の乃木軍の参謀伊地治幸介と乃木希典に開いた口がふさがりませんでした。児玉がこなかったらどうなっていたんでしょうね。伊地治の日露戦争後をおしえてください。
坂の上の雲

  1. 児玉が来なくても第三軍は旅順を陥したでしょう。
    (というより攻城戦のあの段階ではもはや児玉の来着は問題ではない)
    というのも第三軍による攻城がまったく進捗せず、
    “児玉が来たから”手違いが修正されあっという間に陥落したのではないのです。

    散々手探りの状態で攻城法を模索して、幾度となく総攻撃を実施した結果、
    落城は時間の問題、という段階にまで第三軍は既にこぎ着けていたからです。
    (風前の灯火、という訳でもありませんでしたが)

    伊地知は“野戦砲兵”の大家、ということになっています。
    ですから彼は当然その知識を基台とした応用で要塞攻略を指導したですが、
    これがそもそもの根本の問題です。
    つまり、適材適所を欠いた人事だったわけで、先ずこれを問題としなくては成りません。

    個人の資質の問題としてよく戦争が語られますが、個人の能力の多少は近代戦、
    特に要塞攻城という局面では“将帥の才覚”とはなかなか反映されません。
    ですから、個人の性格や表に出てくる情報、しかも脚色されたそれにのみ頼ると本質を見失います。

    伊地知幸介は第5代、第7代野戦砲兵監を務め、更に第11師団長を戦後就きました。
    なんで砲兵監なんだ?旅順での砲兵の不手際は何だ?という世間には声がありますが、
    そもそも野戦特科に攻城指導は出来ないんです、という指摘はありません。

    ですから旅順での砲兵の失敗もこの場合、汚点とは成り得ても
    問題となるのはまた別の次元の問題です。
    (もっとも、この場合“元帥閣下”の娘婿という縁故の線も否定しませんが)
    かっぱ

  2. かっば様返答ありがとうございます。私はこの小説を読みながら同時に知らない人名がでると同じ古本屋で購入した秋田書店の帝国陸軍将官総覧という本で調べたんですが伊地治のところだけは読む気がしなかったもので・・・・・お手数をかけました。それとこの本(総覧)を読んで気になったんですが陸軍で大将になった人物の所属兵科をみると圧倒的に歩兵出身が多いのですがこれも陸軍の歩兵重視・機械軽視の伝統の元になったんでしょうか?ご返答をまっています。
    坂の上の雲

  3. 1.
    >個人の資質の問題としてよく戦争が語られますが、個人の能力の多少は近代戦、
    >特に要塞攻城という局面では“将帥の才覚”とはなかなか反映されません。
    >ですから、個人の性格や表に出てくる情報、しかも脚色されたそれにのみ頼ると本質を見失います。

    おっしゃる通りで第3軍司令部は当時の帝国陸軍参謀のカスの集団です。
    特に佐官以上は、満州総軍、第1・2軍司令部から幕僚及び前線部隊指揮官として
    役に立たないから「要らない」と言われた連中です。
    伊地知参謀長だけを槍玉に挙げるのは問題があります。

    ただし、「海軍は旅順要塞の港湾に突入し艦砲射撃を行え」という発言や
    他人の(大本営や総司令部からの派遣人員)意見を聞かない性格などは
    かなり、問題ありでしょう。
    特に、対要塞砲撃の件に関しては
    事前に、野戦築城を施した野戦陣地でしかなく、砲台も天井部分がシールドされていない露天
    砲台の南山陣地と砲艦、旧式艦が撃ち合った結果、艦艇に被弾が続出、艦長が戦死したという艦艇もあったこと
    を合わせて考えると、応用力の面で「野戦砲兵の大家」とは言えないと思われます。


    >伊地知幸介は第5代、第7代野戦砲兵監を務め、更に第11師団長を戦後就きました。
    ちなみには日露開戦前も砲兵監でした。砲兵の運用法研究や装備(砲弾の製造量の見積もりや
    備蓄の算段も行なう)調達部署のトップです。それが、旅順戦では攻城砲の不足、砲弾の不足について本国や満州
    総軍に文句を言います。この文句に対しての児玉源太郎の手紙が国会図書館に残っています。
    要約すると「全部、お前が戦前に原因を作ったんだろうが!いまになって文句を言うな!」。


    >野戦特科に攻城指導は出来ないんです
    それ以前に陸軍の攻城指導には、かなり問題がありました。
    帝国陸軍の工兵を育てた上原勇作が工兵監に就任したのが日露開戦直前、
    『野戦陣地構築』のマニュアルを作るのがやっとでした。
    ここらへんにも、適材適所が下手という悪癖がでています。
    おまけに開戦後、司令部幕僚として北に向かっています。

    『攻城戦』マニュアルが完成したのは日露戦後。
    これ以前の第3軍は、文字通り試行錯誤を繰り返しながら
    攻城戦を行っていたことになります。



    乃木大将自身は統帥者として見ると、自分が近代戦(日露戦争当時)を立案する事が出来ない事が判っており、
    実際の戦争は参謀に任せ、それを自分の責任の元に遂行していたのですから、合格点でしょう。
    わからないのにあれこれ口出しされるよりははるかにましです。
    ただし、失敗している部下の首を切れないというのは、組織の管理者としては失格でしょうが。



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