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信じ難い話なのですが、複数の手許資料によると、「二〇三高地こと旅順要塞攻防戦でロシアが投入した機関銃はたった2丁」とのことですが、真相はどうなんでしょうか。また、この戦闘の後半で日本軍も機関銃を投入していますが、機種、数量、実戦評価はどのようなものだったのでしょうか。 Schump |
BUN
砲兵の存在まで考えると、典型的な当時の攻城戦(下手すると中世以来のパターン?)であったんですね。
機関銃が注目されたのは、最新兵器だったことと、軟目標を最小のマンパワーで制圧できることが「発見」されたということにとどまるのかもしれませんね。むしろ運用方法が確立されるきっかけとして解釈すべきなのでしょうか。
Schump
ドイツの観戦武官が見て帰って、おおいに吹聴して回った末、1908年にマキシム式(ロシア軍が使ってたものとほぼ同一)を制式化、WWIのアルデンヌ・ザール方面で無理やり突撃してくる(一木支隊のご先祖様ですな)フランス軍に対して感動的なまでに効果を挙げたのが、機関銃がまともに軍隊に対して使われた初めての例だと思います。
それまでは英国の植民地軍などが現地人の反乱の鎮圧などに使った程度でしょう。
日露戦争の真っ最中の頃は、日本陸軍の師メッケルも新聞記者の取材に応えて、「機関銃などおそるるに足らず、現に普仏戦争のときもフランス軍は機関銃を有していたが、我が軍の前に何らなすところを知らなかったではないか」と言ってます。
この頃のメッケルはすでにやや老人ボケが入ってたという説もありますが、当時のヨーロッパの陸軍将校の大部分はこれに近い意見だったのではないかと思います。
だからこそ、WWIでは機関銃による戦慄的なまでの大被害を出すことになったのでしょう。
まなかじ
日露戦争当時、日本軍の機関銃は主に騎兵に装備され、重くて機動の邪魔であるとか、攻撃にはあまり役に立たないとか、余り芳しい評価はもらえてません。
しかし、黒溝台での秋山旅団の防戦は、機関銃なしには考えられなかったという評価もあります。
日本の機関銃はフランス製のオチキス、7.5ミリです。「保式機関砲」と呼称されていました。「砲」なので、歩兵銃(騎銃)との弾薬の共通性に関しては、特に気にならなかったようです。
また、以降の三年式、九二式、一式と続く一連の国産重機関銃全ての母体とも言えますね。
具体的な数量は手許に資料がないのですが、少なくとも満州全域に展開した数という点では、日本軍の方が多かったはずです。
まなかじ
『機関銃の社会史』、是非、出版社名と著者名をお教え願いたいのですが。
雪風II
まなかじ
Schump