109 |
あ号作戦の第三航空戦隊の爆装零戦は「特殊攻撃隊」と呼ばれていますが、あれは実際には発令されなかったものの、事実上の特攻部隊として準備されたのではないでしょうか?同じ様な爆戦を他の航空戦隊も搭載していましたが、これらは「特殊攻撃隊」とは呼ばれていませんし、作戦前に三航空戦隊のみに戦死後の二階級特進が約束されたとの噂は戦史叢書でも取り上げられています。坂井三郎氏の例もあるように、組織的特攻の発動の一歩手前であったのではないでしょうか。 BUN |
疑問点が一つ有るんです
「体当たり」を特攻と呼ぶようになったのは何時からなんでしょう
これが判らないと、特殊攻撃部隊=特攻隊とは言えなくなる
SUDO
BUN
ないまでも、一定の支持を表すものであります。
で、私が思うに、確かに戦史叢書に二階級特進の記述はありますし、それが他
の航空戦隊の爆戦と異なると書いてある以外、具体的に何が違うかの記述は無
い部分に不自然さを感じていました。戦史叢書を良く読むと、「第一機動艦隊
戦策 第五節 航空戦闘第一項 海上機動作戦 第一目 航空戦一般方針」の「八
」に「攻撃ハ先ズ特殊攻撃ニ依リ所在全航空母艦ノ機能ノ自由ヲ奪フニ努メ」
とあり、さらに「第二目 黎明航空戦三(ホ)」などにも、「特殊攻撃隊ハ触接機
ノ誘導ニ依リ黎明前敵航空母艦ヲ先制奇襲ス」などとあって、要するに本攻撃
に先立って、空母の能力を封殺することを目的としていることは窺えますが、
どのような方法でということまで言及が無いので、これ以上のことはわかりま
せん。
私が一つだけ留意したいと思うのは、千代田艦長城英一郎大佐(当時、戦死後
少将、海兵47期)の存在です。この人は航空出身で、侍従武官の後昭和19年2月
15日付で千代田艦長に補職されています。すでに昭和19年初頭から体当たり
戦闘機の発想が軍令部内で生まれたことに関する記述がありますが、特攻(い
わゆる飛行機による体当たり)のルーツに関する出来事の中で比較的早いもの
として、城大佐が当時航空本部総務部長だった大西滝治郎少将に対して、「特
殊攻撃隊の編成を要望」したという事実です(秦「昭和史の軍人たち」文春文
庫、戦史叢書にもその旨記述があります)。これは、昭和18年6月29日と言わ
れ(前出の書)、大西が最初に特攻思想を耳にしたのはこれが最初と、野村実
先生は書かれています(野村「山本五十六再考」中公文庫)。第三航空戦隊の
編成が昭和19年2月1日、653空の編成が同月15日、第一機動艦隊の編成が3月
1日などのことを考えると、第一機動艦隊の戦策の策定に何某かの影響力を与
えたのかなあなどとの想像もできます。もっとも、一所轄長の意見が戦隊よ
り上の艦隊(しかもこの場合は、第三艦隊よりもさらに上の第一機動艦隊)の
戦策にどの程度反映し得たかに関する考察、また実際にそのような事実があっ
たのかの確認が必要かと思います。一般に、実際の作戦実施にあたっては司
令官や司令部に対して艦長が意見具申をすることがあっても、戦策の策定に
対して、どの程度の影響力をもち得るかについては、まだ一定の知識を小生
は持ちません。
あと、仮に城大佐が影響を与えたりあるいは与えなかったとしても、「特殊
攻撃」がいわゆる体当たりを意味するとして、それを明確に戦策に書けたか
どうかという問題は残ると思います。例えば、(まだ裏を取っていないのです
が)たしか真珠湾攻撃の際の雷撃隊は「特第○攻撃隊」と称していましたが、
これにしても「とくに技術的で特別な方法」を採ることとされていたとの文
献もあり、これが本当なら命令書には現れていない事項があるものと認識し
ています。よって、戦策にそれ以上書かれていなくても、関係者間での共通
認識があったかもしれないわけで、本件に関する詳細に関してなんらかの情
報がさらにあればなあなどとも思っています。
今泉 淳