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104 「海軍乙号事件」について詳しい方、詳細を教えて下さい。また、この事件についての書物等が有ればご紹介下さい。遭難の理由は嵐だけでは無く、制空権を完全に奪われた状態のパラオで、充分な燃料補給ができなかった事も有ると聞きました。
後の「あ号作戦」のベースとなった「決号作戦基本要綱」がこの時米軍の手に渡ったで有ろう事は、敵潜水艦によるタウイタウイ泊地近辺の群狼、駆逐艦ニューイングランドの日本軍哨戒潜水艦の虱潰しから見て明らかと思われます。何故米軍は戦後もこの件を公表しなかったのでしょう? 福留参謀を閑職に回さず、二航艦司令という、あの時点で非常に重要なポストに就任させたのは、例によって単なる「年功序列」によるものなのでしょうか?少なくとも口封じに相応しいポストとは思えません。戦後、福留氏自身、「意気軒昂」?に著書を残しておられますが(題名は忘れました・・・)本人も最後まで「まさか米軍の手に・・・」と、信じて疑わなかったのでしょうか?
ZEEK

  1. 米軍の手に落ちた「Z作戦計画」は複製された後、潜水艦にて再び防水ケースごと事件現場付近海上に流されたとのことです。(「第二次大戦太平洋戦域における連合軍情報活動」アリソン・インド陸軍大佐)。また、同書類が活用されたのはあ号作戦ではなく、捷一号作戦において有効であった、とのことです。確かに、あ号作戦の具体的研究は5月より始められており、各部隊の配置、行動の詳細などが決定するのはそれ以降のことなので、戦略級の情報として活用されたのでしょう。
    福留参謀の栄転については、確かに不祥事を覆い隠すために当時、あまり重要でない後方部隊である二航艦司令長官に補されたのではないかと思われます。また、一行の漂着したセブ島は米軍中佐の指揮する少数のゲリラと現地守備隊との間に掃討戦が行われていたものの、日本側の認識としては後方地域でもあり、現地民の反乱勢力と見ており一行に対しての待遇も比較的良好であった為に「敵性が少ない」と判断したようです。書類に関しても、不時着時の状況と後方地域であったことへの安心からさほど問題とされなかったようです。確かにゲリラ側も討伐戦で包囲圧迫されており、包囲の解除と一行の釈放を記した手紙を現地部隊と交換するなど、どこか軍事というより治安レベルの状況が感じられるような気がします。
    BUN

  2. 早速のご返答有り難うございます。その書籍は現在でも入手可能なのでしょうか?しかし、軍令部はあの時点で二航艦司令を閑職と考えていたのでしょうか? 僅か半年後、特攻しか有効な反撃手段を持たなくなった一航艦に変わり、比島攻略米軍反撃の航空部隊主力として、再びこの地を舞台に展開する事になったのは、運命の皮肉と言うことでしょうか? 大西長官が何度も一緒に特攻で、と説得したにも関わらず、福留長官は自分の戦力に自信有りと聞き入れず、結果はご承知の通り。
    因みに私が人事権発動の最高責任者なら、海軍大学校校長の席を用意したかな・・・ アッ!! それじゃ後の栗田さんの席がなくなってしまいますネ・・・

    ZEEK

  3. 二航艦はこの時点では確かに後方部隊でした。マリアナ戦直前の航空部隊は角田長官以下の第一航空艦隊に集中していましたし、一航艦が決戦場に想定していたのは西カロリン諸島でした。
    更に、栗田長官の件ですが、戦後の戦記の世界では臆病者と切り捨てられていますが、レイテ海戦直後の軍令部の認識は百八十度異なります。「栗田艦隊は大損害を被りながらも敵機動部隊に大打撃を与え、比島決戦における新たな局面を開いた」との認識でした。軍令部での海戦直後の戦訓検討にその記録が残っています。護衛空母を正規空母と誤認していたことが全ての原因ですが、「弱体化したと思われる敵機動部隊」への攻撃を続行する希望があった為に、マリアナの時のように作戦を中止せず、十一月以降の航空決戦が続行される訳です。
    BUN

  4. 忘れた。本の件ですが、わかりません。戦史叢書の当該巻等を参考にしてください。
    BUN

  5. 吉村 昭著「海軍乙事件」という本が有りますので、ご覧下さい。
    無限


  6. 乙事件後に福留繁が司令長官(司令じゃないですよ)に親補された時点におけ
    る第二航空艦隊は、まだ戦力概成中だったはずですが(資料をみないと正確に
    は断言できませんが)、当時海兵40期で司令長官(親補職)にあったのは、席
    次1番の岡新のみであったはずで(これも正確に調べないとまずいけど、少な
    くともGF内ではそうだったと思う)、少なくとも左遷ではないと考えます。
    「不祥事を覆い隠す意味で親補職につける」という観点から、2AF司令長官
    は都合が良いポストだったのでしょう(海兵40期は、司令官から司令長官職
    になっていておかしくない時期だったし)。

    ちなみに、栗田中将は第二艦隊司令長官の後、海軍兵学校校長に補されてい
    ます。
    今泉 淳

  7. 福留長官は二航艦の初代司令長官ではないんでしょうか?十九年六月編制だろうと思っていました。何にせよ、決戦部隊である第一航空艦隊の充足率が五割程度だった状況で第二航空艦隊は戦力としては存在していなかった訳ですが。
    BUN


  8. >福留長官は二航艦の初代司令長官ではないんでしょうか?

    そうです。

    >十九年六月編制だろうと思っていました。

    この場合は「編成」が正確かな。第六二航空戦隊から改編された時期を調べ
    ておきます。

    >何にせよ、決戦部隊である第一航空艦隊の充足率が五割程度だった状況で
    >第二航空艦隊は戦力としては存在していなかった訳ですが。

    これも、正確な数字はともかく、BUNさんのおっしゃっていることは間違い
    はないと思います(分かる範囲で調べてみます)。

    BUNさんは、陽に書かれていませんが、小生の以下の記述、すなわち、

    >乙事件後に福留繁が司令長官(司令じゃないですよ)に親補された時点に
    >おける第二航空艦隊は、まだ戦力概成中だったはずですが

    に異議がおありなのだと思います。で、これは私の文章にやや誤解を
    招く部分があって、上記の文章は「福留繁」が「司令長官に親補」さ
    れたのが「乙事件後」なのであって、「乙事件」の際はまだ第二航空
    艦隊は存在しなかったはずです(まだ62航戦の時代ですね)。で、編成
    されて司令長官が親補された時点では、まだまだ戦力化していなかっ
    たわけです。

    今泉 淳


  9. そういえば、第二航空艦隊は初代長官が福留繁だったですが、実は解隊
    される昭和20年1月8日まで交代はなかったので、艦隊としては初代かつ
    最後の司令長官になりますかね。この日をもって、2AFの幕僚は1AFの幕
    僚になったり(1AFの小田原俊彦参謀長が参謀副長になって、2AFの参謀長
    だった菊地朝三が1AF参謀長に横滑りしたりしてる)、転勤になっている
    はずですね。当の福留長官は、第十三航空艦隊司令長官に転補(正確に
    は、軍令部出仕とかを挟んでいるかも)ですが。
    今泉 淳

  10. いやいや、細かい話ですが、正確には乙事件発生時には第六十二航空戦隊は第一航空艦隊であって、第二航空艦隊の前身ですらない、二航艦の前身と言えるのは編成直前五月に入ってから、錬成の進んだ部隊を引き抜かれた六十二航空戦隊が一航艦を離れて直轄部隊となったごく短い時期を指すのでしょう。
    BUN

  11. ↑ああ、そういう意味なのですね。それならそれで、議論は別になり
    ますね。一応理解しました。まあ、「前身」をどう定義するかにも依
    りますけど、それはそれで別途考察をした上での話でしょうね。
    今泉 淳

  12. >第六二航空戦隊から改編された時期を調べておきます。

    昭和19年6月15日でした。


    今泉 淳

  13. 大変勉強になりました。皆さん有り難うございました。(質問者)
    ZEEK

  14. 佐藤宗次著「海軍パイロットの証言 選修学生から中支・南方戦線へ」東洋経済刊

    のなかにこの事件に関する記述があります。一番艇の古賀長官一行が結局セブ島で

    ゲリラの捕虜となっている間に、長官は死んだものと思われ元帥となり、正三位勲

    一等旭日桐花大綬章を授与された。現地の陸軍第35軍司令部では「海軍の長官と

    その幕僚は殉職の既成事実があるので、捕虜となった不名誉な軍人を今さら救出す

    る必要はない。捕虜となり自決もできない軍人は我が方で射殺するのが武士の情と

    いうものである。ゲリラともども射殺すべし。」との命令が下され、陸軍の討伐隊

    長西村中佐はゲリラとの交渉で長官一行六名を引き取り、ピストルを渡して自決さ

    せた。西村中佐は長官一行を救出したので、「軍機密保持違反」のかどで討伐隊員

    全員がレイテ海戦へ送られ、玉砕戦死した。。との事です。

    MITTU

  15. パソコンに慣れてないもので、とんでもない打ち方になってしまいました。ごめんなさい。
    MITTU

  16. あれ、↑って、

    >吉村 昭著「海軍乙事件」という本が有りますので、ご覧下さい。

    の内容と随分違いますね。吉村氏の著作によれば「大西大隊」だった気が
    しますが(手元に現物無いので怪しい)、それはともかく筋が全然違います
    ね。これって、当時現地で風評としてそういう話があったとか、その類の
    ことでしょうかね。

    # 選修学生ってことは、下士官兵出身者?
    今泉 淳

  17.  この本の著者は明治39年生まれ、昭和2年から水上機の訓練を開始し、昭和13年海軍兵学校選修学生卒、昭和8年から始まった南洋委任統治領調査飛行ではパラオ、サイパン、トラックからギルバート方面を九〇式飛行艇で飛び回ったそうで、乙事件のパイロットは後輩たちだそうです。
     乙事件については何冊かの本で読みましたが、どの本も長官の乗った一番艇は行方不明となっており、二番艇に関する記述しかありません。私の知る限りでは一番艇、二番艇両方の消息が記されているものはこの本しかありませんので著者に取材してみたいところですが、残念ながら平成7年、この本の出版直前に亡くなっておられます。
     もしこの話が事実なら、タイミングから言って二番艇の福留参謀長以下が救出された後の事ではないかと思います。
    MITTU


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