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第一次大戦のオーストリア軍はなぜあんなに死傷率が高いのでしょうか?オーストリア軍になにがあったのでしょうか? ガッチャン |
ロシア軍は対ドイツ戦ではいいところがありませんでしたが、オーストリア軍に対しては自信を持っていましたし、オーストリア軍のほうでもロシア軍に対して苦手意識を持ってしまいました。
それよりももっと大きいのは、オーストリアは訓練済みの兵員を大量に、かつ一度に失ったことです。(陸軍の主力35万(死傷25万・捕虜10万))
このことによってオーストリアは陸軍の再建が不可能になってしまったのです。
オーストリア・ハンガリー二重帝国は、多民族国家でした。
軍隊に「突撃!」と命令するのに七カ国語が必要だったという笑えない笑い話が残っていますが、そのくらい兵員の訓練には困難があったということです。
したがって、1915年以降のオーストリア軍兵士、それより重要なことに最前線で指揮をとる下士官や下級将校、戦力の末端がほとんど未熟なまま、ひどいときには上官の命令が理解できないということが「本当に」あったような状態で前線に送られていきます。これでは思うような作戦もできません。
当然消耗は激しく、そのために尚更新兵を前線に送り込まねばならないという負けが込んできたときの悪循環にオーストリアもはまりました。
もちろん、構成民族のなかにはハプスブルグ家支配に不満を抱いている分子も数多くいましたし、損害は激しく、ロシア軍は怖いし、軍の士気は低いままです。
とにかくオーストリア陸軍にとっては、すべてが悪い方向に歯車がかみ合ってしまった感じです。
本来ならば楽勝のはずのセルビア軍にてこずり、バルカン方面にマッケンゼン兵団の応援を必要としたのも、イタリア軍を独力で撃退できなかったのも、すべてガリツィア戦の失敗、ひいては開戦時の第3軍司令官ブルーデルマンのせいといってもいいかもしれません。
英独仏には一歩を譲りますが、交戦国の平均からすれば兵器などが劣っていたわけではない(但し、量的な補充はやや不足気味)ですし、参謀総長のヘッツェンドルフ元帥以下統帥部はWWI当時としては水準以上、英仏よりはましでしょう。
まなかじ
1999
Tec
P-kun
一応カフカズ戦線というのも存在していましたが、ロシア軍は(彼等の言う)西部戦線、いわゆる東部戦線に主力を注ぎ込まざるを得ず、また、トルコ軍もカフカズ方面で大軍を動かすには兵站能力が不足気味(あのへんはかなりの山岳地帯です)で、ロシアが攻めてこないならば・・・という事で、静かな戦線でした。
英軍に対しては、1916年まではトルコは非常にいい戦いをしています。まあ、どれもドイツの軍事顧問(ゴルツやザンデルス)の指導によるものではありますけれども。メソポタミア戦線(イラク)ではクテルアマラ(バスラ)で英軍の主力の包囲撃滅に成功していますし、有名なガリポリ(ゲリボル)半島の戦いでは英仏連合軍に陸兵の死傷11万5千、前ド級戦艦7隻撃沈という大損害を与えて、ときの海軍卿チャーチルを辞任に追い込んでいます。
ターニングポイントになったのは、これまた超有名な「アラビアのロレンス」の工作により、アカバが陥落したことからです。また、これ以降、主たる支えであるドイツの国力が西部戦線での大消耗によって疲弊してきたこともあり、急速にトルコの戦力は下降していきます。
ちなみに、トルコ海軍の主敵はロシア黒海艦隊でした。革命の機運が熟してくるまでは、終始ロシア艦隊が優勢に戦いを進めていたようです。
まなかじ
トルコ艦隊は積極的に行動しますが、1915年7月以降黒海艦隊に弩級艦が就役して以降革命が
起こるまでは損害を恐れてかロシア艦隊が黒海での主導権を握って作戦を行っています。
大塚好古