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14 第14師団が水際戦術を止めて内陸に築城しての持久戦をとったのは、たまたまパラオに立ち寄った第18軍参謀の小幡一喜大佐が井上師団長に勧めたからという説もありますが、それ以前に第14師団が大連にいた時点で、大本営の情報参謀であった堀栄三中佐が米軍戦術の講習会を開いて、水際防御の危険性と内陸に堅固な縦深陣地を築いての持久戦術の有効性を説いたのがそもそもの始まりだったとの説の方が当たっているようです。第14師団がパラオ防衛の為にチチハルから移動する直前に工兵第14連隊の兵舎が焼けた時に失った事にして、

  1. (これも下の続きです。うわあみっともないぞ。)定数の倍の工兵機材をパラオに密かに持ち込んでおり、これが島の要塞化に大いに役立っているからです。


  2. とか脱線話をしてしまったので話を戻すと、昭和22年まで頑張ったのは山口永少尉以下34名。地下壕や洞窟を利用してゲリラ戦に転じて昭和22年4月22日まで戦い続けたそうです。やはり組織的抵抗というより、ルパング島の小野田少尉に近いような気もします。



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