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221  太平洋におけるトップエースである西沢飛曹長が、昭和19年10月に比島で輸送機で移動中に戦死したのはあまりに有名です。そのとき西沢飛曹長が便乗していたのは鳩部隊こと1021空のダグラス輸送機であったとする資料が大半ですが、その根拠をご存知の方がおられましたらご教示ください。
 ちなみに、この件について複数の鳩部隊関係者によっても確認できず、ひょっとしたら同時期に比島方面の輸送任務に従事していた1022空(虹部隊)所属機かも知れません。
鳩要務士

  1.  数日回答ありませんので、素人で御質問とは少し的外れの回答ですが御参考になればと思い書かせていただきます。

     1982年 F6Fのパイロットだった、ハロルド・P・ニュウェル中尉は次のように述べています(要約)。
     西沢飛曹長の搭乗機は、1944年10月26日ミンドロ島北端のプエルタ・ガレラとガラバンのあいだで母艦に帰投中だった私と僚機のVF−14のヘルキャットの2機に、偶然遭遇し私の攻撃により撃墜された。
     この時の記録は百式重とされており、ハロルド・P・ニュウェル中尉は(或いは米軍は)DC−3ではなかったとしているようです。

     また「日本海軍はこの時期、この百式重を時々輸送任務に使用していた。」と、書いてありますが誰の意見か主語のはっきりしない書き方です。

     以上の主張に対して、1021空の元搭乗員である河野光揚氏は、「当時日本海軍がこの戦域で陸軍機を輸送任務に使うことはありえない、百式重と誤認されたのは一式陸攻二二型または二四型ではないか、当時このこの空域は無武装のDC−3では危険で飛べず一式陸攻の後期型を輸送任務に使用していた。」と述べられています。

     尚、西沢飛曹長は、戦死後二階級特進して中尉となっておられます。
     何れが本当か、まったく別の真実があるのか、どうなんでしょうか。

     参考文献 『日本海軍航空隊のエース 1937−1945』
           ヘンリー・サカイダ著 大日本絵画 2000年
    上記文献、大阪なら、東梅田の旭屋に今のところ在庫有ると思います。

    roht

  2. rohtさま、ご教示有難うございます。
     私も河野元飛曹長に直接お目にかかってお話を伺ったのですが、19年10月頃の比島の空は確かに非武装のダグラスが日中に飛ぶのは危険だったというお話を伺いました。ただ、19年10月26日の鳩部隊各機の行動は戦後の戦友会などで話も出ましたが、西沢飛曹長が戦死した際の機については鳩の所属か、またダグラス輸送機であったかどうかもわからないというのが結論だったそうです。
     しかしながら、今回ダグラスではなく1式であった可能性が確認できたのは幸いであり、また、新たな謎が生じてしまった感もあります。

     しかしながら、西沢飛曹長ほどのスーパーエースの最後すらはっきりしないというのも、当時の比島戦線における我が方のジリ貧ぶりが伺えますね。
      
    鳩要務士

  3. ゼロ戦20番勝負、という本の中に伊澤保穂氏が1021空の陸攻で茶木飛曹長が
    機長であった、としていますが、同氏の陸攻と銀河だと茶木飛曹長は攻撃708
    飛行隊の所属機になっています。1021空で無ければ攻撃708飛行隊なのかも
    しれません。
    川崎学

  4.  茶木久敏飛曹長(乙飛5期操縦)は、19年9月1日付のものと思われるの鳩の搭乗員名簿に記載されていますが、9月20日頃にマニラにあった鳩部隊主力に96陸攻ぐるみで着任しています。ただ、この人の戦死、あるいは転出については鳩の部隊史には記録されていません。
     これはあくまで私の感触ですが、元鳩部隊の大竹元中尉や河野元飛曹長のお話からは茶木飛曹長のK708転出はなかったと思われますので、西沢飛曹長をセブから「冥界」へ運んだのは、とりあえず「鳩の茶木飛曹長の1式陸攻であろうか?」としておきたいと思います。
    鳩要務士


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