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すいません怒らないで下さい。 エルウィン・ロンメルについて詳しく教えてください。 拾った英軍にゴーグルつけてたとか北アフリカで大活躍って事ぐらいしか分からないんです。後何をした人でどういう人物だったんでしょうか? 紅葉饅頭 |
糸瓜蒲鉾
TS29
まずはその辺りから始めるのが手軽で良いのではないかと。
その次のステップとしては
「ロンメル将軍」(デズモンド・ヤング著、早川書房 ISBN4-15-050030-4)をおすすめします。
「狐の足跡」(デ−ヴィド・ア−ヴィング著、早川書房)もよかったのですが、こちらは現在絶版のようです。
PT
ロンメルは確かにドイツ軍屈指の名将なんでしょうが、
彼の活躍した北アフリカ戦はあまり重要な戦場じゃないです。
何しろ彼が指揮していたのは過半数がイタリア兵でしたから。
それよりもずっと肝心な独ソ戦史が十分に語られていない。
上記紹介の文献でもヒトラーは専ら独ソ戦に夢中で、
北アフリカには殆ど興味が無かったとか。
剣野まい
砂漠で迷子になったイギリス兵にゴーグルを配ったのでしょうか…
私の知っている話では、攻略したイギリス軍陣地に落ちていた双眼鏡ケースをいたく気に入って愛用していたというのですが。
Schump
ドイツ軍屈指の名将にだから、あんなにしてやられたのであって、ヘナチョコな将軍だったらどーってことないよ! また、そんなにすんごい将軍と戦って、勝ったんだぜ! という。
なわけで、イギリス人の書いたものを読むと、ロンメルが魔法使いのような名将軍だったり、エルアラメインがものすごく重要な戦いだったりという印象を受けがちになります。
その実態は、本来なら軍団長どまりの有能な野戦指揮官というくらいなもので、そんなんだったら、ドイツ軍にはいくらでもごろごろしてます。
まなかじ
アリエフ
彼の指揮で心機一転して勇猛果敢に交戦国の一員として活躍できたでしょう。
北アフリカの独伊軍は、武器装備・兵力共に過半数がイタリア軍だったのです。
「砂漠のキツネ」(パウル・カレル 中央公論社)にもそのことが書かれてます。
三野正洋氏は「ドイツ軍の小失敗の研究」という著作で、最強のドイツ軍は
イタリアのせいで負けたというふうなことを言ってますが、この人の見解は
ドイツ軍を買いかぶりすぎで、北アフリカで連合軍の進撃を一時停滞せしめた
ロンメル指揮のイタリア兵の活躍を無視していると思われます。
毛沢豚
ノモンハンやマレー・シンガポールの日本陸軍の戦いぶりを見れば、
決してそうではなかったんですね。ジューコフのソ連陸軍はドイツ陸軍
すら破ったほどの強者ですがそれでも日本陸軍はほぼ互角の戦いをしました。
1944年の段階でさえも「大陸打通作戦」で中国軍を一網打尽にしています。
寧ろイギリス陸軍こそ遅れていたわけで、マレー・シンガポールで実証済み。
まあイギリス人は過半数がイタリア兵だったロンメル師団にアメリカの武器援助
で勝ったエル・アラメイン戦がさぞ重要な戦いだったかのように言ってるけどね。
ゴリラーマン
>日本陸軍はほぼ互角の戦いをしました。
それって何時ぐらいの事なのですか?
Str
ソ連軍の大攻勢作戦で小松原の23師団が大損害を受けて敗退しました。
時を同じくして独ソ不可侵条約が協議され、八月二十三日に公表されてます。
ショックを受けた平沼首相は「欧州戦線は複雑怪奇なる新情勢を生じた」
という声明を出して退陣してしまったのです。非常に後味の悪い出来事でした。
しかしながら、最近ソ連の資料公開によれば全損害は確実にソ連が上回っており、その為に日本とはそそくさと停戦に応じたということです。
ゴリラーマン
「弱虫イタ公」なんて物言いはドイツ人の負け惜しみに過ぎません。
それまでイタリアが連戦連敗だったのはムッソリーニの駆け込み参戦で、
まだ戦争の準備をしておらず装備が悪く士気や練度も低かったからです。
まさに「砂漠のキツネ」(パウル・カレル 中央公論社)にある通り、イタリア軍
はロンメル指揮により立派にドイツの戦友としての役割を果たしたんですよ。
きんた
片
ましてノモンハン事変は1939年夏であって、司馬には何の関係も無いです。
ゴリラーマン
片
ノモンハン当時に比べて南方への戦力抽出により格段に弱体化していた、戦争末期の関東軍をどう考えるかによりますね。あれだけ戦力を抽出したのは、関東軍自体がソ連が攻めてこない、その可能性は少ないと考えていたこともある。もちろん、軍や政府もソ連に一縷の望みを賭けていた。独ソ戦当初はソ連の方で有力部隊をヨーロッパに引き抜いたこともあって、ソ連国境は安泰と見るのは当然だったのだろうが、だんだん状況が変わってきて危ないと思ったときはもう遅く、どうしようもなかったということではないでしょうか。前線の一兵士の立場としては、不足がちな兵器に不満と不安を持つのだろうけど。
アリエフ
片
矢作
司馬氏は応召されて満州で戦車部隊の戦車長(小隊長?)の訓練を受けて、ソ満国境の防衛についていましたが
終戦近くになって本土防衛のために関東地方に転属になったと書き記しています。
Navy
片