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真珠湾攻撃に参加し、最後は横須賀航空隊にいた塚本祐造大尉という戦闘機パイロットがいたと思いますが、あまり良いうわさ、評判を聞きません。真珠湾からの ベテランなのにどうしてでしょうか?教えてください。 大尉 |
「塚本8000」と呼ばれていたそうです。その理由を聞いたところ、離陸後
すぐに自分だけ高度を8000メートルにとり、帰還後、敵機見ずと報告すること
がしばしばあったそうです。そういうことがあって、評判はあまりよくなく
零戦会にも顔を出さないそうです。しかし、真珠湾攻撃や、初期のラエ基地攻撃
の時などはそうでもなかったそうですから、18年のマーシャル攻防戦ぐらいから
そうなったのではないでしょうか。
一等兵
あります(多分大田和達也さんの本かなにかのような気が)。たしか、横空に
いたときは例の「鬚の羽切」の羽切さんが部下にいたころじゃないですかね。
ちなみに、良く知られているように、この手の士官が結構いたことはあちこち
の手記に良くでてきます。多くの場合匿名なのですが、それでも書いた本人の
所属していた部隊と時期などから、概ね想像できることもあります。
今泉 淳
瑞鶴時代は岩本徹三氏の本に、春日丸時代は谷水竹雄氏や杉野計雄氏の戦記に、252空時代は宮崎勇氏の本に塚本大尉の名前が出てきますが、特に、252空時代の米機動部隊のウェーク来襲(18年10月)時に塚本大尉指揮の6機の零戦が7機の陸攻を援護してタロアを発進、ウェーク救援に向かったものの、F6Fに奇襲され塚本大尉は単機帰着、宮崎氏を含む3機のみがウェークに着陸し、翌日陸攻で命からがら生還したというエピソードが宮崎氏の本に書かれています。この辺の事情について、塚本氏は戦後一貫して沈黙を守っておられるということです。
なお、平成13年6月7日発売の丸エキストラ7月別冊戦史と旅29に「戦闘機隊長・塚本祐造少佐のアルバムより」ということで、「空母瑞鶴艦上の搭乗員たち」というタイトルで、5航戦時代の貴重な写真が掲載されています。
土屋二飛曹