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ドイツ軍の主導権がソ連側に移ったのがスターリングラードの戦いであると高校の教科書にはのってますが、みなさんもそうおもいますか?何かの本にはクルスクの 戦いであると載ってましたが。 kvs |
そしてスターリングラード以降、押され気味にあるドイツ軍が挽回を図るために展開したのが43年7月のクルスク戦だったわけだが、作戦は決して失敗ではなかったものの、7月10日に連合軍が地中海からシチリア上陸作戦を開始したため、急遽、この方面から必要な戦力をイタリア方面に引きぬかなくてはならなかった。
以上、戦略的意義としてはスターリングラードの方が大きく、クルスクはシチリア上陸の不運(?)も重なって不十分な反撃しかできず、独軍の後退を食いとめるチャンスを逃したものだと思います。
アリエフ
BUN
とかいう全5巻の映画の第1巻にクルスクを持ってきており、
明らかにクルスク戦こそ戦争の転換点であるとの認識を持ってますね。
「ドイツの勝利はスターリングラードに終わり、
ドイツの敗北はクルスクに始まった」
なんて言葉もあります。
いずれも元ネタは歴史群像。
勝井
BUN
台詞がありまする。スターリングラードは赤軍にとって輝かしい勝利ではありましたが、
まだ完全に主導権を取ったと言えないことは1943年初期のハリコフ攻防戦が指し示していると
言えると思います。
大塚好古
「クルスク」に転換点を求めるのは戦闘そのものを重視し過ぎた戦車ファンの見解?で、ついてゆけない。
更に穿った軍事マニアのへそ曲がりの見解としてはバクラチオン作戦直前の状況までは幾ばくかの勝利の可能性を否定できない・・・等の見方もあるけれど、あくまで酒の席での話。
有名な戦闘に何かの意味付けを強引に行おうとすることは少し危うい、ということでしょう。
BUN
総力戦的に見れば、戦闘の結果で決まったんじゃないと思うんですよ。
端的に言えば、ルールとウラルの戦いというか…。
ソ連軍の戦力が、徐々にドイツ軍を圧倒できるまでに増大していく、その過程の中のどこかに分水嶺というか、駱駝の背骨を折る一本のわらがあったのだと思います。
大作戦を始める理由が自主的なものではなくなった、つまり、ソ連軍に対して内線作戦しか取れなくなった、ということであれば、ツィタデレ作戦(クルスク)が最後だとは思います。
しかし、ツィタデレ作戦の目的は「戦線の安定化」にあり、つまりは時間稼ぎにすぎません。あわよくばソ連軍機甲予備兵力を撃滅して、自軍の回復との差を更につけようと…やっぱり時間稼ぎです。
スターリングラードは、ちょっと違うのではないでしょうか?
ドイツ軍史上有数の大敗北ではあります。
ですが、東部戦線での敗北はBUNさんご指摘のとおり、1941年冬に既にあり、結果論にはなりますが、ドイツがソ連に勝利するという見込みがこの時点で非常に薄くなっている、戦略的に見ればスターリングラードなど比較にならない大敗北と言えます。
また、ブラウ作戦も自国の長期持久態勢を作り、ソ連のそれを骨抜きにするという一石二鳥の作戦ではありますが、それで即戦争の帰趨が決まるというものではありません。
やはり、バルバロッサ作戦(中でもとくにタイフン作戦)が頓挫したことが最大の敗北で、後はドイツ軍がいかにソ連の反撃を遅らせるか、という戦いになっていたと思えます。
まなかじ
ソ連敗北の可能性が消え、対独抗戦継続を保障した転換点だったと思います。
なぜならそれ以後のドイツ軍の攻勢はいくら成功を収めていても、
それはソビエト政権の中枢部をおびやかすものではなかったからです。
ヴォルガやセヴァストポリはモスクワと違ってそれ自体が攻防戦の砦で
あっても抗戦継続のための軍事生産・戦争指揮の拠点ではないです。
スターリングラード攻防戦・クルスク会戦はそれぞれ東部前線
におけるソ連軍の優勢・勝利を決定づけた戦いだったと思います。
いづれも転換点と言うよりは、独ソ決戦の天王山でしょう。
魔法皇帝ガレオン
モスクワはソ連の軍事生産・戦争指揮の中枢であって、
そこを制圧されたらソ連の継戦能力そのものが危うくなります。
継戦能力そのものが奪われたら武器援助もクソもありません。
1941年秋はソ連にとって史上最悪の状況で、モスクワでは党員証を
破り捨てる者が続出していました。スターリン自身も首都放棄を考えました。
しかしながらこの年末年始にかけてドイツ軍は大きく後退させられ、
もはや二度と首都モスクワが脅かされることは無くなったのです。
これこそソ連の対独抗戦継続可能が明確に保障された「大転換点」でした。
ですがこれだけでドイツの敗北が決まったわけではありません。
独ソ「決戦」はまさにここからが始まりです。
スライム