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この前、衛星放送でアメリカ製のバルジ大作戦のドキュメンタリーを見ていたら、「武装SSのヨッヘン・パイパー中佐は戦車隊の名指揮官だったが、ロシア戦線で数多くの民間人を虐殺し、バルジの戦いの時にも米軍捕虜と多くのベルギーの民間人を虐殺した粗暴で残酷な軍人だった。」と紹介されていました。にもかかわらず、プラモデルには「パイパー戦闘団」というキットがあります。パイパーSS中佐のプラモデルなんか販売していいんでしょうか?パイパーSS中佐のファンもいるようですが、パイパーは残酷なナチの親衛隊の将校だったんではないでしょうか?ヒトラーユーゲント機甲師団の師団長で「擲弾兵」(僕はこの本を学生時代は持っていた)を書いたクルト・マイヤーSS少将とは違って。 海軍元帥 |
読まれてはいかがでしょうか。
KI-100
TVの第二次大戦ドキュメント番組の質は御存知の筈だと思いますが・・・。
マイヤーが良くて、パイパーが駄目とは如何な思考の果ての結論でしょうか?
また、もし、仮にパイパーが虐殺に関連した将校だとしても、「パイパー戦闘団」の模型が発売されても特に問題はありません。
BUN
独軍が最も進出した地点はパイパー戦闘団の戦区ではありませんし、
バストーニュは交通の要衝でもなく、ここが戦闘の焦点となったのは作戦後半からで、
クリスマスに天候が回復したから作戦が頓挫したのはなく、
戦闘が最高潮に達したのは一月最初の数日であり、
パットンは戦闘の勝利にさほど貢献していません。
「バルジ大作戦」と現実とは、これだけ異なる戦闘が行われていたのです。
BUN
バスト―ニュがバルジ戦の攻防の象徴的存在になってしまったのは偶然が多分にあると思いますが、交通の要衝ではないというのはどうでしょうか?1944年から1945年にかけての冬は中部ヨーロッパは寒く積雪が多く、バルジ戦に続いてのアルザスでの戦いでもこれが戦いの趨勢に大きな影響を与えたようです。バスト―ニュにしても起伏に富んだ複雑な地形の中に張り巡らされた道路網の中心にあるのだから積雪の中で進撃路、補給路としての道路の確保の拠点として重要ではなかったでしょうか?。また、ロレーヌから進撃した第3軍にバスト―ニュ突入に成功され後方の南半分を絶たれてからのドイツ軍の戦いぶりは確かに激しかったけれどバスト―ニュの戦争博物館の解釈、DESPERATE やけくそ、の戦闘説に頷けてしまうんですがどうでしょうか?
SHI