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大和の最終代艦長有賀幸作は水雷出身ですが、これはどういった理由によるのでしょうか? これまでの歴代艦長は鉄砲屋ですが、大和の用法に関して、海軍内部での変化があったのでしょうか? まなかじ |
とーる
和艦長の後、第二艦隊参謀長)も水雷屋だったんじゃないですか。あと、
武蔵艦長古村啓蔵(海兵45)も水雷屋だったように記憶しますが。
今泉 淳
有賀大佐が「大和」艦長になったのが昭和19年11月25日で、まさに
捷1号作戦で連合艦隊がボロボロにされた直後。これ以降、艦隊として行動しようにも、燃料がないなどの理由で大部隊が動けない状態になったので、極端ですが、誰が艦長でもよかったんではないでしょうか?
しかし、専門外の分野と思われる艦に艦長として乗った人は他にもたくさんおられますので、とりたたて珍しいことではなかったと考えますけど…。
源五郎
いかにも日本的ですねぇ。
勝井
とーる
> 森下信衛(海兵44、大和艦長の後、第二艦隊参謀長)
森下信衛は海兵45期でした。訂正します。
ということで、ちょっと調べてみました。
まず、大和型戦艦の艦長人事について記しますと、以下艦長への補職年月日を
示します。
大和
宮里秀徳(兵40,航) 昭和16. 9. 5(-16.11. 1)
高柳儀八(兵41,高砲,甲種) 16.11. 1(-17.12.17)
松田千秋(兵44,高砲,甲種) 17.12.17(-18. 9. 7)
大野竹二(兵44,甲種) 18. 9. 7(-19. 1.25)
森下信衛(兵45,高水,甲種) 19. 1.25(-19.11.25)
有賀幸作(兵45,高水) 19.11.25(-20. 4. 7)
武蔵
有馬 馨(海兵42,高砲,甲種) 17. 8. 5(-18. 6. 9)
古村啓蔵(海兵45,高水,甲種) 18. 6. 9(-18.12. 6)
朝倉豊次(海兵44,高砲,甲種) 18.12. 6(-19. 8. 2)
猪口敏平(海兵46,高砲,甲種) 19. 8.12(-19.10.24)
上記の出典は、
「日本海軍史」第九巻 将官履歴 上
「日本海軍史」第十巻 将官履歴 下
です。ちなみに、同書にはマークは記されていませんが、それぞれの履歴上、
術科学校高等科出身、あるいは海軍大第学校甲種学生出身であることは容易に
チェックできますので、上記はほぼ確実と考えます。また、年月日のはじめの
ほうが艦長への補職年月日、括弧内が次の配置への補職年月日であり、その日
までが艦長職と考えて良いと思います。ただし、それを前提にすると、武蔵艦
長は、朝倉豊次と猪口敏平のときに10日ほど空白期間があり、これが本当なの
かはちょっと分かりません(参考文献の誤植か、あるいは本当にそうだったの
か、両方があり得ると思います)。
これらの中で、大野竹二だけ術科学校高等科を経ていませんが、履歴を追って
みると航海長の配置が多いので、実質的には航海畑の人とみなすのが妥当だと
思われます(航海学生を経ないこの種の士官を「航海屋」と呼ぶかどうかは、
知りません)。
大和と武蔵がほぼ戦時にしか存在していなかったのに対して、他の戦艦は随分
と長い期間存在しておりますので、サンプルとしてあるいは考察対象としても
挙げておくのも悪くないと思います。以下は、歴史群像太平洋戦史シリーズ
Vol.21「金剛型戦艦」(学研)にある、雨倉孝之「太平洋の群像 『金剛型』戦
艦の艦長」にある表の抜粋で、戦艦艦長の専門術科別の人数を示したものです。
砲術 水雷 航海 通信 その他
長門 12 13 6 0 1
陸奥 10 11 4 1 0
金剛 0 5 2 0 1
比叡 1 1 0 0 0
榛名 2 5 3 0 0
霧島 2 1 1 0 1
なお、長門と陸奥は、(多分)竣工から除籍までの全期間、金剛型各艦は高速戦
艦への改装後の在役期間に対する数字です。
高速戦艦は、夜戦への投入も考慮されていますので、第三戦隊司令官をはじめ
艦長人事にも一定の配慮がなされていると見て変でなく、一般に夜間の操艦を
重視するため水雷、航海出身者の配員が(他の戦艦に比べて)多くなっていると
考えられます(その意味では、比較対象としてはあまりふさわしくない)。
その一方、長門型のほうは、「砲術以外の出身者数 ≧ 砲術出身者数」という
不等式が成立ち(これは、高速化以前の金剛型各艦の艦長についても同様のこ
とが言えるのが、雨倉さんの文や抜粋した元の表から分かります)。
大和型が他の戦艦に比べて、艦長人事において特になんらかの配慮がされたか
手元の資料では分かりませんが、数から言えば、砲術5、水雷3、航海2となり、
上記の不等式にも一応当てはまります。最大の戦艦という意味で長門や陸奥と
同じ配員方針が採られたと見ることも不自然ではなく、別段砲術出身しゃのみ
が艦長職を独占したわけではないと考えられ、そういう観点から考えれば人事
上の方針の変更があったとは思われません。ただし、戦争末期における人的資
源の枯渇や戦艦の用法の変化などの点からして、上記とは別の意味での配員上
の方針変更がなされた可能性は私自身は現段階では否定しませんが、それは大
和や武蔵のみの艦長職の配員傾向にその根拠を求めるのではなく、他の配置と
の比較をした上で論じるのが良いのではないかと思われます。
なお、艦長・司令の配員方針については、前述の「日本海軍史」第五巻 部門
別小史 上 の「人事」に掲載されている、昭和12年の「人事局内規」において
は、
(イ) 人物識量指揮官たるに適すること
(ロ) 任務に応じ、人物、閲歴、抜群の適材を配置
(ハ) 一個艦隊(一個戦隊)内の艦長・司令に関しては左記を配慮すること
A 操艦の技倆を考慮して適当に配置すること
B 甲種学生出身者と然らざる者及特技を適当に配合する
C 先任後任及クラスの関係
D 一個戦隊内の司令及駆逐艦長、潜水艦長、掃海艇長、水雷艇長等にも努
めて前諸項の主旨を適用すること
とあり、操艦などの技倆の考慮は(大和型が大型であったため)なされた可能性
はあるかもしれません。
今泉 淳