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77 上坊 良太郎という人物について教えて下さい。
 
帝国陸軍航空隊で少飛1期生という事とノモンハンに参戦ーとまでは分かっているのですが、ただ、「丸」別冊(?)には「隠れたノモンハンのエース」と手記が載っていた記憶があるのですが、酣燈社刊「日本陸軍戦闘機隊」の「エース列伝」の項にはまったくでてこないのです。
 はたして、彼はほんとうに撃墜王だったのでしょうか?(まったく、戦果をあげてない人物を、いくらなんでも取り上げないと思うのですが・・・。
 

占守

  1. 昔、「丸」で読んだ記憶では70機撃墜で(主にソ連のイ-15や16が相手とはいえ)
    坂井三郎氏よりスコアは上です。
    また、大戦末期には二式戦を駆使して、前方からの反航→敵機直前で失速・錐揉み
    降下という戦術で2〜3機のB29も撃墜していた筈です。
    たしか、20〜30年前の「丸」の古本にB29撃墜の体験談を投稿してたのを読
    んだ記憶がありますです。
    三ッ目犬

  2. 三ッ目犬さん、ありがとうございました。

    しかし、ではなぜ彼は篠原 弘道少尉(58機撃墜)のように紹介されないのでしょうか? 
    自称だからでしょうか?(しかし海軍の岩本 徹三中尉は紹介されている) 
    ずっと前からの疑問だったので。
     
    どなたか、そのあたりの事情をご存知の方は、お教え願います
    占守

  3. 彼の手記から判断するに、あまり口も文章もうまくなかったんじゃないか、それで(零戦の坂井、隼の黒江氏ほか
    と違って)マスコミ受けしなかったんじゃないかと思われる節があります。(戦前の人にたまにいた「不言実行型」、
    あるいは、他の事情?)
    ちなみに、篠原少尉(58機撃墜)の例が有名になったのは、死後、彼の迫力ある日記が公開された結果だと思い
    ますです。わたしが上坊サンの手記を読んだ古い「丸」(1970ごろ)において、彼の日記も読みましたです。
    (戦前のメディアの主流は活字メディア。ラジオはNHKのみ)

    ちなみに、その「丸」には撃墜王ランキングも載っていて、上防氏の70機撃墜は陸軍トップでした。
    そのランキングでは、たとえば海軍の撃墜王のスコアはすべて公認記録で表記されており、
    西沢:38機(100機以上撃墜説あり)
    笹井:25機(F4Fに撃墜される直前に書いたと言われる友人への手紙には55機撃墜したとある)
    太田:20機
    というもので、かなりきびしいものでした。
    三ッ目犬

  4. 本題とずれてきちゃうけれど、昭和18年以降は個人撃墜記録は
    公認されなくなったんです。部隊記録になって。
    だから西沢飛曹の撃墜数はずっと多かったでしょう。
    名無しさん

  5.  初めまして、源五郎といいます。疑問の件で一言。
    「丸」の別冊というのは「丸」エキストラ版11号の事と思います。
    この記事によると、日華事変が初陣で、64戦隊、33戦隊、1野戦補充飛行隊に所属されて、終戦時は大尉でした。
    ちなみに、この記事では撃墜数は76機です。
    また「日本陸軍戦闘機隊」のエース列伝に記載されていない点ですが、これは撃墜数が公式記録や他の人の証言が得られなかったためと思われます。
    よって同一編者の「日本海軍戦闘機隊」でも岩本飛曹長が自身の日記で202機を主張しているにもかかわらず、上記の理由から80機前後と推定されております。
    源五郎

  6. 岩本氏の撃墜数に大きな違いがあるのはある時期を境に個人記録は
    公認されなくなったからです。西沢飛曹もそうで、いくら落としても
    個人記録としては認められないことに不満を漏らしていたそうです。
    岩本氏は仕方なく個人的に自分の撃墜した記録を手帳に記し、それが
    岩本メモとして戦後世に出ました。

    そんなわけで公認記録がない隠れエースは結構います。最も有名なのは
    64戦隊の最後の戦隊長だった宮辺少佐です。彼は59戦隊の南郷大尉
    などと並ぶ陸軍を代表する指揮官エースであったとの評価を得ていますが、
    公認撃墜数は0なのでいわゆるエースリストには出てきません。
    名無しさん

  7. 上坊良太郎氏は、(今はっきりとした資料はもう手元に有りませんので、提示できませんが。)おそらく陸軍航空隊では、最高に近い撃墜数を持っておられる方です。(古い記憶で申し訳ありませんが、多分、穴吹氏???=まったくの記憶い???=海軍??? と陸軍航空隊のNO.1 エースを 争われる方だと記憶いたしております。)

    陸軍少年飛行兵、1期生の数少ない生存者であり(平成12年2月に、同期の池島重次郎氏死亡の為、多分、樫出勇氏と2人だけか? もし間違っていたらごめんなさい。)現在もご健在です。
    池島氏の、葬儀では、友人代表として弔辞を読まれました。

    上坊良太郎氏を『はたして、彼はほんとうに撃墜王だったのでしょうか?』とは、
    正に、失礼の突き当たりのようなものです。(少しきつくて御免なさい、でもそう言いたくもなるんですよね。知っている人には常識みたいなものですからね。)

    ただ、戦後は、自分から外部にはそのような話は、ほとんどされていません。
    このような、質問をご覧になっても、だまって杯を傾けられるだけでしょうね。

    ここで面白いエピソードを1つ。(真偽ははっきりしませんが?)
    上坊氏が、戦後、自家用機の免許を、お取りになった時に、(大学教授が小学生に講義を授けるようなものですが)、まっすぐに飛んでいてもすぐに機体を滑らせてしまわれるので、小学生?に、よく叱られたとか。
    上坊氏曰く『直線飛行ばかりしていたら、敵機に不意に一撃かけられたら、それで御仕舞いですからねえ。』

    占守様 
    平成12年2月22日に、このホームページを知り、23日日にこのご質問を知り
    ご返事さし上げました。お目に留まるか少し心配です。お目に留まりましたら、回答欄に、ご確認の御返事お願い申し上げます。
    1週間ほどで、ご確認のない場合は、他の御連絡法を考えてみます。






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