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どーにも解らないんですが、栗田提督とは無能なんでしょうか、有能なんでしょうか? ほんとに根性なし(ミッドウェイでも逃げたと言われてたような)なら、どうして、そのような人物が司令長官にまでなれたのでしょうか。 南雲長官と同じように「温情」だったのでしょうか?(MI終了時) 個人的には同期の三川提督の方が好きなのですが。 あと、インパールの牟田口司令官(極嫌)は、あの作戦後、終戦まで何を(役職)をしていたんでしょうか? よろしく、お願いします 占守 |
>でしょうか? ほんとに根性なし(ミッドウェイでも逃げたと言われてた
>ような)なら、どうして、そのような人物が司令長官にまでなれたのでし
>ょうか。南雲長官と同じように「温情」だったのでしょうか?(MI終了時)
この手の話は様々なところで議論がされているにも関わらず「こうだ」
という結論が出ていないと思いますし、また出るものではないとも思い
ます。評価というのは、絶対的に唯一きまるものではないと思いますの
で。
という前提で私見を申し上げれば、人間として非常に良い評価を、多く
の部下だった人が持っていることは事実のようです(特に大佐の頃までは)。
しかし提督となった後の「指揮官としてのふるまい」は、決して勇まし
いとか良い評価では必ずしもなくて、石渡幸二氏の指摘する「あらぬ方向
に走る」「所要の際に連絡をよこさない」という悪壁は否定できないよう
に思います。
ではなぜミッドウェー作戦後、それ以前の振る舞いも含めてとがめを受け
なかったのは、一つには直属上官たる第二艦隊司令長官近藤信竹中将の性
格にも依るのではないかとも思います。当時第二艦隊参謀(通信主務)の中
島親孝中佐(当時少佐)によれば、「(栗田少将の振る舞いにたいして近藤
長官に対して)もっとちゃんと注意して欲しい」と感じる部分があったの
で、このレベルで表面化なれなかったことも一因だと思います。あと、ミ
ッドウェー海戦の際は、南雲中将のほうの責任のほうが大きかったり、聯
合艦隊司令長官の作戦指導上の問題や責任もあったこともあって、その振
る舞いがとがめられなかったという側面もあると思います。なにしろ、山
本自身なんら責任を問われていませんので、一部将である栗田に大きな咎
めが及ぶとは考え難いです(具体的に温情があったかどうかについては、
資料を得ませんが)。それが証拠に、直後の艦隊改編で第三戦隊司令官に栄
転(と見なして良いと思います)していますし、ガ島の挺身攻撃で評価が上
がったという側面もあるのか、第二艦隊司令長官にまで進んでいますしね。
>個人的には同期の三川提督の方が好きなのですが。
でも、第一次ソロモン海戦のとき、輸送船団をほったらかしにした
ってことで、山本長官はご機嫌斜めだったらしいですよ。
>あと、インパールの牟田口司令官(極嫌)は、あの作戦後、終戦まで何を
>(役職)をしていたんでしょうか?
陸軍は詳しくないですが、士官学校(予科士官学校だったか?)校長だったと
思います(どなたか分かればフォローお願いします)。
今泉 淳
「評価はいちがいには決められない」
ある意味、その通りだと思います。山本五十六に対しても、あれこれ評価は分かれると聞いた事もあります。なかなか難しいという事ですね。
また、疑問がわけば質問させていただきます。その時はまたよろしく。
関係のない質問ですが、各コーナーの若い番号はどうやって見ればいいのでしょう(^^;
占守
まぐまぐマグロ
昭和20年1月12日:予科士官学校校長という経歴を持っておられます。
源五郎