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日本海軍の提督(少将以上)で戦犯になった人っているんですか?
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- 有名なのは左近允尚正中将。昭和19年3月に起きたビバール号事件の件で英軍に告発され絞首刑になっています。ビバール号事件というのはインド洋での通商破壊任務についていた「利根」が英商船ビバール号を捕捉して撃沈、捕虜の内女性とインド人を除く65名を殺害して海に捨てた事件です。「利根」艦長の黛治夫大佐(日本軍命中率3倍説で有名)、当時所属していた第16戦隊司令官の左近允中将、その上級司令部である南西方面艦隊司令部の三者の間で言い分が異なり、殺害を命じたのが誰かは藪の中です。
- 当時、南西方面艦隊司令長官だった高須四郎中将は、戦争中に病没していたので戦犯容疑は免れましたが、もし生きていたら同じ運命を辿ったでしょう。ちなみに実際に殺害を実行した黛大佐は懲役7年の刑でした。(EOS)
- 下に書いた左近允中将は香港での軍事裁判で裁かれた訳ですが、東京で行われた極東軍事裁判で起訴された海軍の将官は、永野修身大将、嶋田繁太郎大将、豊田副武大将、とあと一人(名前忘れた)の4名。永野大将は裁判中に病没、嶋田大将ともう一人は終身刑を言い渡されたものの昭和29年に仮釈放、豊田大将は罪を問われず釈放。あと近藤信竹大将も戦犯リストに入っていたようです(EOS)
- (追加)醍醐忠重中将−昭和18年11月から同19年8月まで勤めた第22特別根拠地司令官(バリックパパン)在任中の処刑事件の件で蘭印軍事法廷に起訴、昭和22年12月6日銃殺刑。中沢佑中将−横浜軍事法廷で重労働10年の判決、昭和27年仮釈放。草鹿任一中将−戦犯容疑でチャンギ刑務所に収容されたが昭和21年12月釈放。
- (追加)変わったところでは澄川道男少将、戦犯容疑者としてグアムで拘置中に、昭和22年ペリリューに潜む水戸第2連隊の兵34名(ans.qの別項参照)に対して降伏呼びかけを行い投降させる。結局戦犯容疑は免れたようです。
岡敬純中将も極東裁判で起訴されてますよね。海兵39期、軍務局長、
海軍次官、鎮海警備府司令長官の経歴があります。また、歴史的に
見れば、軍務局一課長当時、あの石川信吾中佐(当時)の首をつない
だ人として有名です。さらに、鎮警長官への転任は、新補職就任な
ので形の上では栄転ですが、米内海相が岡次官(野村海相の置き土産
)を好まなかったことからして左遷と見て間違いないでしょう(私見
ではありますが)。
今泉 淳
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