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旧日本軍において、やたら米飯にこだわり、米軍のような近代的携行口糧が発達しなかったのは、なにか理由があるのでしょうか? 米英軍兵士の手記を読んでも、密林のなかで一斉にあがる、日本兵の炊飯の煙や水蒸気をみて、布陣位置や数、そもそも食料の欠乏状況が手に取るようにわかった、との事です。 戦場でいちいち飯をたくなんて、およそ近代軍隊ではありませんね。 ペコペコ3等兵 |
- 日露戦争の頃、既に乾パンが用いられてますよ。
第二次大戦時ドイツ軍の場合、前線で展開している師団に製パン部隊があり、毎日パンを作るため大量の水と燃料を必要とすると共に、それを傘下の部隊に配給しなくてはならないという手間隙かけていたわけですが、戦場でいちいちパンを焼くというのも近代軍隊に似つかわしくないということになってしまうのでは?
アリエフ
- ついでに、大戦当時の米軍の「近代的携行口糧」として用いられたのがペミカン・ビスケットなるもので、見た目は悪く食欲が涌かない、1週間以上食べ続けると下痢するという代物です。当然、前線の兵隊からの評価は最低でした。
アリエフ
- ドイツ軍の場合、中隊(200人くらい)にひとつの割でいわゆるフィールドキッチンを配備し、温かいシチューの類を供していました。末端へは金属製の保温容器を背負って運ぶのですが、これが狙撃兵の目を引くこともあったようです。パンは師団レベルでまとめて焼くので、まだしも煙が目を引くことを防ぐこともできたでしょうが。
末期になるとフィールドキッチンも不足してきたのか、仕出し弁当のような冷たい戦闘食が配られることが増えたようです。「暖かい物を食っているのは偉いさんだけだ」という兵士の不満(たしか捕虜の尋問結果)をどこかで見た覚えがあります。それ以前にも行軍中は缶詰、パンなど調理不要の物だけが供されましたが、これも単調だとかいろいろ不満がありました。
マイソフ
- ドイツ軍の場合、戦場で、“と畜や製パン中隊”が存在したのは事実ですが、あくまで最前線の後方で、安全な作業環境がある場合にかぎり部隊活動が許されておりました。当然調理しないで食べられる、行軍食、携行食、戦闘食のたぐいは、残念ながら日本軍とは、比較にならない程充実していたようであります。
シベリヤ送りにされた関東軍将兵が、食料給与に関して、赤軍に体力維持のため、黒パン以外にも、米食をさせろと交渉した史実があり、どうも日本軍はこれにこだわるところがあるんですね。
ペコペコ3等兵
- 太平洋戦争における旧日本陸軍の前線での食糧事情の悪さはよく言われる話ですが、陸軍とて携帯戦闘糧食の類が全くなかったわけではありません。軽量で食べやすくカロリーも充分、厳冬下でも凍らず、戦時の経済封鎖下でも作れるよう安価且つ国産資源を用いる等を主眼に、それなりに合理的に考えられた『携帯口糧』がいくつか開発されていました(もっとも別の資料では陸軍の携帯口糧は主に航空兵用という記述もあるのでいまいち調査不足なんですが(;^_^A)。まぁ米軍のCレーションやKレーションと比べると見劣りはするでしょうが・・・
『戦闘糧食の三ツ星をさがせ!』によれば以下のような携帯口糧が考えられていたそうですが、資料不足のため個々の詳細は不明です。
・乾パン(乾麪包)・ゴム玉入りヨウカン(駄菓子屋とかでよく見るアレ)・粉味噌 ・携帯甘酒
・圧縮口糧(玄米アラレを主食、乾燥鰹節・梅干し・田麩を副食として圧縮し缶に詰めたものだそうな)
・圧縮乾燥野菜 ・軍糧精(カロリーバーのようなものらしい)
軍糧精は確か同じようなものが民間向けにも売られていたと『丸』誌かどっかの記事で読んだ記憶があります。
あと、乾パンは乾麪包とも呼ばれてたりしますが、日清戦争の頃に導入されたハードビスケットの一種である乾麪包を軽量小型化したのが乾パンという話もあり、手元の資料では違いがはっきりしませんでした。
こうしたものがありながら前線で活用されなかったのは、軍上層部の補給に対する無理解と急激な戦域拡大による軍自体の継戦システムの破綻が主な理由だったのでしょう。
余談。今の自衛隊でも飯盒炊爨は訓練科目の中にあり(競技会の種目にもあるそうな)、個人装備の一つとして飯盒が含まれています。が、一部のレンジャーを除いて前線で隊員個々が飯盒で飯を炊くという状況は想定していないと思います(そんな状況は最早末期的なわけだし)。
自衛隊の場合、野戦食は『後方支援部隊が野外炊具で調理した食事を飯盒やトレーで配食』『最寄りの駐屯地で調理した食事をトラックで輸送し配食』『隊員各自が戦闘糧食を携帯』の3形態となっています。
自衛隊の戦闘糧食(I型・II型)についてはAns.Qでも何度か話題に上ったことがありますが、主食がご飯(行動食的なものとして乾パンとクラッカーもあるけど)な辺りはやはり日本人だと思います(笑)。調理済の包装米飯を熱湯か簡易加熱剤(携帯カイロのお化けみたいなもの。II型で採用)で温めるシステムですが、米故に加熱に多少時間がかかるのが難点といえば難点ですかね。
ブラック・タロン
- 逆に言えば米飯だからこそ、燃料と水さえあれば第一線の兵だけの自力で温かい糧食を摂取することができると考えてみてはいかがでしょうか。
メシが暖かいか冷たいか、乾いているか湿っているかというのは、どこの国に限らずかなり士気に影響するものです。
また、日本軍における米ほど依存度は高くありませんが、前線の兵が自力で調理すべき携行食糧としてイタリア軍は乾燥パスタを使用します。
こだわりといえば、英軍は冗談でなくあらゆる戦線で最大限の努力を払ってお茶をわかします。そこまでではなくとも、ドイツ兵の温かいコーヒーに対するこだわりも相当なものですし、ソ連兵も温かい紅茶にこだわります。
ドイツやソ連の製パン車はしばしば好目標として敵の偵察隊に襲撃される対象でもあり、またノモンハンでも日本軍に襲われた例があります。イメージされているほど後方で行動していたわけではなく、兵はイーストの香りのするパンを食べたがったし、また製パン中隊もその期待に応えようと努力していたのでしょう。
米軍はなんだかんだといっても量的にはともかく質的にはかなりの粗食に耐えて戦う軍隊なのであり、日本軍は孤島に閉じ込められたりしない限りは、戦闘中でも第二線に第一線の分の飯を炊かせてまで暖かいメシを食べようとし食べさせようとする軍隊だったのです。
日本軍にも戦闘口糧がなかったわけではありませんし、技術的に劣っていたわけでもありません。品目を見れば欧州各国のものに優るとも劣りませんし、日本独特の優れたものも見られます。ただ、それに依存しようとしなかったのです。
それは近代軍隊がどうのこうのというより、各国の食文化と国軍の食事に対する、つまりは兵の士気というものへの考え方や姿勢の違いが出ているところであり、結局は一長一短のあるものであると思います。
まなかじ
- こだわりがある…というよりも単純に母国でどのような食習慣なのか?結局パン主体(携行食品化しやすい)の食生活と米主体(携行食品化しにくい)の食生活の差ではないでしょうか?
高度に訓練された兵士であっても、肉体的精神的に非常に大きなストレスがかかる戦場だからこそ、普段と変わらない食事を摂れるということは、長期的に見ればストレスの軽減や士気にも関ってくる事かと思われます。
そういう意味では戦場で飯盒を使用して米飯主体の食事を摂ることは別に前近代的な事とは思えません。
YAS
- >4シベリヤ送りにされた関東軍将兵が食料給与に関して・・黒パン以外にも、米食をさせろと交渉した
シベリア抑留者に出された食糧の質がどの程度のものだったのでしょうか?黒パンといってもピンからキリまでありますが、最低レベルのものしか出してないわけでしょ。最も量自体が不足していましたが。
たまには生米を出さないと抑留者の作業能率と士気は上がらないぞと、拒絶されることを承知で言っていたのでは?
アリエフ
- むしろ、駐屯地にいる感覚で警戒配備にない各中隊は時間を横並びに合わせていっせいに食事にしたり、総攻撃を記念日に合わせたり、攻撃前に「壮行会」めいた一斉炊き出しをやったりというような、作戦とか戦術とか補給計画という以前の工夫のなさが問題なのだと思います。
>5
日本陸軍の補給部隊や補給能力、主計将校や輜重の能力は列強に比べて優るものとは言えませんが、かといって決して劣るものではありません。
日本陸軍の補給に対する考え方は常識的なものであり、その重要性は十分に認識されています。
兵科将校の「補給に対する無理解」の度合はドイツやアメリカと大差はないように思います。どこの国にもそういう傾向はあり、その傾向の度合は通常のレベルだったのです。
大戦中、方面軍ないし軍レベルでの補給計画が杜撰で作戦に失敗した例はニューギニア戦線とインパール作戦だけであり、他の補給途絶は主として海上輸送の破綻、および敵制空権下による陸上輸送の破綻を原因とするものです。
まなかじ
- それと、補給の本には補給システムの話しか出てこない、という傾向にも注意する必要があります。ドイツ軍兵士の回顧録を見ると、みんな野菜袋を持っていて、農場から勝手に残り物のジャガイモなどを掘っていた、などという話がごろごろ出てきます。もちろん上に知れてはまずい話で、分隊や班のレベルでは分かち合って、しかし他の中隊の物は時にこっそりいただいて、分隊用ストーブや個人用コンロや即席かまどで調理していたようです。ですから前線で煙はやはり出していたと見るべきで、あとはまなかじさんがお書きの「配慮」の差だったと思うのですね。
マイソフ
- とりあえず、参考文献だけですが。
『帝国陸軍戦場の衣食住―糧食を軸に解き明かす"知られざる陸軍"の全貌』(〈歴史群像〉太平洋戦史シリーズ (39)、学研、ISBN: 4056029199、2002)
なお、パンは現在でも宮内庁の大膳(いわゆる「天皇の料理番」)では「麺麭」(めんぽう)と呼ばれているそうです。
出典:「昭和天皇 日々の献立」(渡辺誠 著、「文藝春秋」2003年2月号)
OPD
- 第一次世界大戦でイギリスから欧州派兵を打診された時、「我が軍の兵士は米の飯がないと戦えない」とこじつけて派兵を拒否したと言うのは本当でしょうか?
みどり
- >12
事実関係としては以下のリンク先が参考になると思われます。
http://www3.kiwi-us.com/~ingle/honbun-2/japans%20participation%20to%20ww1.html
通りすがり
- 手持ちの書籍を引っ掻き回してみたところ、興味深い記述にぶつかったので軽くまとめてみます。
米軍の野戦における給養は後方地区(Rear Areas)と前線地区(Forward Areas)に分かれ、後方地区は敵の攻撃の恐れのない位置に設定されるが、その位置関係上後方地区において給養を受ける部隊は前線から離れなければならないので、戦闘に即座には投入できない。
前線地区に置いて設置される給養施設は通常中隊レベルで設置され(中隊本部ないし段列附近において、という意味であろう)、食事の供給能力の限界から24時間休みなく食事を作りつづけることとされていた。状況が許す限り小隊ないし分隊単位で前線給養施設まで食事をとりにくるが、不可能な場合は炊事部隊が前線までコンテナに入れた食事を輸送することも多かったが、この場合兵士は冷めた食事をとらねばならず、兵士たちにとって満足のいくものではなかった。さて、それも不可能なときは? それこそCレーションの出番であろう。
中隊本部は概ね機銃弾は届かないが迫撃砲弾は届く範囲にあるものですし、敵の攻撃が無縁というわけではなかったでしょう。なお、1937年型野戦厨房(M1937フィールドキッチン)はガソリン燃料式で、煙は出にくかったように思いますが、いつの段階でどれほど普及していたかは不明です。
米軍において新鮮なパンの給養は士気を保つ意味でも非常に重視されており、野戦状況下であっても兵士に新鮮なパンを支給するために製パン中隊(Quartermaster Baker Company)が編成されていました。
これは軍団レベルで配備される部隊で、1日当たり半ポンド(227グラム)のパンを4万人に支給できる能力を持つとされていましたが、これまた戦況やら補給状況やらによって供給能力は激しく左右され、例えば沖縄戦の場合、本隊の上陸開始が4月1日、前線将兵に既定の半量をやや上回る136グラムを支給できるようになったのが5月15日前後(上陸後45日)、既定どおり227グラムを支給できるようになったのは沖縄戦集結宣言(7月2日)の10日後のことだったそうです(上陸開始から100日後)。
野戦製パン用フィールドオーブンM1942はガソリン式で煙は少なそうですが、制定されたのが遅かったせいか薪燃料のM1917も平行して使用され、後者はどうやら大戦を通じて少数が居座りつづけたようです。
さて、第二次大戦における米軍の野戦炊事装備は概ねガソリン式に更新され、その意味で炊事に伴う煙は他国よりは少なそうですが、しかし米軍の野戦給養システムを概観するとどうしても煙の発生を抑えられないように思える一項が存在します。
それは野戦用食器洗浄(熱湯消毒)施設でして、これは長さ8フィート幅1フィート深さ1フィートの溝を掘り、その溝をまたぐ形で巨大なブリキ管(最大のもので136リットル入り)3つを置いたもので、水を張ったブリキ管の下で火を炊いて熱湯とし、洗剤を溶かした熱湯(ブリキ管のうち2つ)で使用した食器を洗い、溶かしていない熱湯で(残る一つ)ですすぐというものですが、溝の下で火を焚くという性質上液体燃料は考えにくく、恐らく薪によるもので、ここからは隠しようのない煙が立ち昇っていたのではないかと思われます…。
通りすがり
- 旧陸軍には九七式炊事自動車という装備があり、これは電気式の炊飯器を備え1時間当たり4〜500食の炊飯能力をもち、保温も可能であるとのことです(この他に電気ないしガソリンバーナー使用による副食の汁の製造/保温や沸水能力も持つ)。
また、5.でブラックタロンさんが触れられている携帯口糧は、熱量食、軍粮精、元気食と称されるものは概ね米軍のDレーションに、携帯圧搾口糧と呼ばれるものは概ねCないしKレーションに相当するもので、性能的(内容、分量、梱包など)にも特に遜色はないように思われます(これらは調理の必要なく食べられることが要求性能としてありました)。
従って旧日本軍は、米飯にこだわりを持っていたのは事実ですが、それは日本における主食が米飯であったからであり、それが携帯口糧の発達を阻害したという事実はなく、また無煙炊爨、温食の支給など給養の近代化/充実化に努力していたものと思います。
戦場で“いちいち飯を炊いていた”のは、それを調理という意味で見れば独り旧日本軍のみではなく、上に挙げられた諸回答から米軍、独軍に置いても同様で、それは温食の支給というものが軍隊において重要視されていたためでありましょう。
以上、内容的に重複する部分もありますが、結論めいたものを出してみました。
最後に、11.で上げられている書籍には隠密飯盒炊爨の訓練という写真が載っています。キャプションによれば、飯盒を土中に埋めて炭火で炊くことで無煙の炊飯が可能であったとあり、必ずしも前線で炊事の煙が上がっていたとは限らない、ということなのかもしれません。
通りすがり
- 朝日文庫から「食べ物さん、ありがとう」という栄養学講座のシリーズが出ていますが、これの講師を務められた川島四郎博士は旧陸軍主計少将で、日本軍の携帯口糧の開発を行われた方だったこともあり、続編以降になると旧陸軍の口糧について触れた話がいくつか掲載されてます。御興味があれば御一読をお勧めしておきます。
大塚好古
- わしら兵隊は一日一食は米を喰わないと力が出ないのよ。
乾パンやらなんやらではしみったれた気分です。
米軍の戦闘糧食(軽量包装のやつ)も何回か食べましたが、その後の”糞”切れが悪くこれも気分がよろしくない。
日本人は米を喰って動くような体の構造だと思う。
後3−40年たてば判らないけど。
KOBA-P
- 海軍で、脚気予防のパン食が不評だった結果、麦飯となったように、
当時の日本人は米食が主食でした。
そして当時の日本人労働階級にとって「主食」と言うのは、
こういう事です。
---細井和喜蔵「女工哀史」より、女工の一週間の献立-----
曜日 朝 昼 夕
月 大根汁、たくあん 油みそ、たくあん ヒジキ、たくあん
火 かぶ菜汁、たくあん 金時豆、たくあん 豆腐豚汁、たくあん
水 梅干、生姜 数の子、たくあん 大根、たくあん
木 大根汁、たくあん 大根、たくあん 塩鮭、たくあん
金 菜っぱ汁、たくあん 里いも、たくあん 福神漬け
土 梅干、たくあん 豆腐汁、たくあん 大根、たくあん
日 豆腐汁、たくあん 干物、生姜 千切、たくあん
ちなみに米は食べ放題で、この「米食べ放題」が貧困な農家の娘さんが
女工を志願する理由となった一つです。
1日4合も米を食べた理由。白米で脚気が生じた理由。戦地でも米を食べた理由。すべてがコレで説明できます。
無頼庵
- なぜ日本陸軍では、米食が中心となってしまったのか?
これには、ちゃんとした原因があり、ひとつの騒動がきっかけでした。
明治の初め、軍隊創設にあたって、まず海軍の軍医局では、
脚気の防止を急務としていました。そのなかにあって、イギリスの
医学を学んだ高木兼寛は、毎日洋食を食べている将校連
に脚気が無い事に注目して、米食中心の食事を止めて
麦の併用、洋食中心といった大幅な食事改善にとりかかりました。
このことは、当時日本では、脚気が一般的な病気だった事もあり、
陸軍だけでなく医学界全般に知られる事となりました。
しかし、このことに猛反発を示したのは、ほかならぬ陸軍軍医局でした。
陸軍の軍医は、東大医学部出がほとんどで、そこでは、当時最高と
位置づけられたドイツ医学こそが絶対でした。
反対派の急先鋒は、実に、森鴎外こと、森林太郎でした。
当時、ドイツのコッホ研究所でも脚気が細菌説だったこともあって...
高木ごときに何がわかるか!栄養学的に和食、洋食に違いは無い!
洋食が良いとは迷信だ!などと高木の業績を否定する論文など
発表して徹底して妨害しました。しかし陸軍としても脚気はやはり問題でしたし、
陸軍内にも食事の改善に前向きな者も多く、取り入れる動きがありましたが、
逆に軍医局は、食事改善すらみとめずとし、結果として白米主義を押しとうす事となってしまいました。
また、当時の兵士の多くは、貧しい家の者が多く、白米を食べられる事を楽しみにしており精神的効果も大きかったことも事実でした。
日清戦争で4000人、日露戦争で21万人もの脚気の被害者が出ていたにもかかわらず、
その後も米食至上主義を貫きとうしつづけました。森鴎外ら陸軍軍医局のメンツの執着が、
その後の近代機動戦術に対応できない兵食事情(副食、携帯口糧は別として)の要因となってしまいました。
マサ
- マサさま。
>日清戦争で4000人、日露戦争で21万人もの脚気の被害者が出ていたにもかか>わらず、その後も米食至上主義を貫きとうしつづけました。
>の後も米食至上主義を貫きとうしつづけました。
>森鴎外ら陸軍軍医局のメンツの執着が、
>その後の近代機動戦術に対応できない兵食事情(副食、携帯口糧は別として)
>の要因となってしまいました。
日本陸軍は、麦飯の導入には一時期、懐疑的だったのですが、
日露戦争の末期には麦飯を支給していたはずです。
また、所謂「牛缶(牛肉大和煮の缶詰め)」は
日露戦争を切っ掛けに普及した食品です。
大平洋戦争当時は、どうだったか、手許に資料がありません。
女工哀史の場合、
米は南京米(パサパサした長粒種の、いわゆる「タイ米」です)。
豆腐豚汁。塩鮭と言っても微々たる量で(副食はお代り不可)。
脚気患者は多数発生したようです。
>また、当時の兵士の多くは、貧しい家の者が多く、
>白米を食べられる事を楽しみにしており精神的効果も大きかったことも
>事実でした。
そうですね。
麦飯や雑穀入りの食事は、農村では一般的であり、
脚気は田舎で静養すると治る例もある事から、
一種の「都会病」の様なモノだと思われていた節もあるようです。
もどって質問に帰るから、まぁツーリングの類をなされば解りますが、
パンの場合、2〜3日でカビが生えるか、カチカチになります。
また、どっちみち一から副食を作るなり、
レトルトや缶詰めの副食を暖めたりするのに5〜10分は、
火を使わないと行けません。
長期保存が出来て、20〜30分間、火を使えばすむ米飯が、
そんなに悪い食品だとは思わないです。
ただし、ペコペコ3等兵 さんのおっしゃる「炊事の煙」については
改善の余地を感じます。
第二次世界対戦中、ドイツは「esbit」という固形燃料使用の携帯コンロを実用化してました。
今でもそこらへんの大きいアウトドア屋さんで簡単に手に入ります。 燃料コミで1000円もしません。
コーヒーを沸かしてみれば、感動モノの代物ですし、頑張れば米も2合炊けます。
もし、ペコペコ3等兵 さまが、炊飯時の煙を問題になさるなら、それは食事の問題では無く
燃料や個人装備の問題、あとは運用の問題ではなかったのでしょうか。
無頼庵
- ↑PCの変換が妙に遅いので強引に打ち込んだら、細部の日本語が文法を外れてしまいました。すみません。
無頼庵
- >19
11.に挙げられている書籍によれば、日本陸軍の兵営での食事は一食あたり2合分の米麦飯(米3:麦1の割合)の主食と副食(おかず)、汁、漬物の組み合わせが一般的であった、とあります。
また同書には、第三十三連隊の大正十一年四月十九日(水)の献立予定実施表が詳しく紹介されており、これによると朝食は上に挙げた米麦飯2合、味噌汁、漬物。昼食は米麦飯2合、煮込みうどんと漬物で、煮込みうどんのうどんは75グラムで、これは汁とおかずを兼ねたものとされています。夕食は主食に食パン、おかずと汁兼用のシチューとパンにつける砂糖(嘗めものと呼ばれた)というメニューだったようで、白米ばかり食べていたというわけでもないようです。
また、戦車第3師団は1944年4〜5月にかけて、30日で1400kmを進撃しており、これは進撃速度で言えばドイツ軍の西方電撃戦のそれに匹敵するものではないでしょうか?
通りすがり
- すみません、言い訳を2点ほど。
戦車第3師団の例は、日本軍の機械化部隊による機動作戦としてはもっとも大規模な部隊だったため取り上げたもので、進撃速度または進撃距離で言えば、これより大きな数字の例がいくつかあります。
また、西方電撃線との比較を文末でしていますが、じつは数字を確認しないで書いてしまったものなので(みなさん本はよく整理しましょう)、もしかしたら及びもつかない数字であるかもしれません。具体的な数字を提示できる方のフォローをお待ちしています。申し訳ありません(汗)
通りすがり
- 皆様のよりこまかな見解及び事例等、大変興味深く拝見いたしました。
ちなみに、私の書き込みは、吉村昭著「白い航跡」講談社を参考にした物で
それ以上のものではありませんので、あしからず。単に御参考のほどを...
マサ