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2.26事件の反乱部隊はなぜヘルメットを装備していなかったのでしょうか。鎮圧部隊は装備していたようです。 予備役航空兵特務曹長 |
- 当時の鉄帽は野戦用のoptionだったと聞きます。従って叛乱部隊の演習とも警備とも應急出動ともつかない曖昧な形での出動装備としては、赤い軍帽を被っている方がむしろ通常だったと考えられます。鉄帽を被ると、隊内の兵器・被服管理者に対する出動の秘匿ができなくなるおそれもあります。実弾の用意すら秘密裡に行わなければならなかったくらいなので。
対する鎮圧部隊は、一戦を交える覚悟で野戦用重装備を以って臨んだのでしょう。
あるめ
- あるめさん ありがとうございます。
隊内の兵器・被服管理者を演習だと言ってごまかすことは出来なかったのでしょうか。それとも、実戦は想定せず、鎮圧部隊の出動は無いとしていたのでしょうか。
どちらにしても、ヘルメットの有無は士気に相当影響するものとどこかで読んだことがあります。
予備役航空兵特務曹長
- 鉄帽そのものが個人の装備として完全に配布されていたかどうか、中隊被服庫にもあったかどうか、疑問です。聯隊被服庫に出征用として備蓄されてはいたのでしょうが。日常的には赤い軍帽で教練から演習から実戦まで、すべてを済ませていて、当時の兵隊さんは鉄帽の効能そのものも余り知らなかったのではないでしょうか。むしろ戦闘帽や鉄帽を被っている方が異様であったと思われます。満州事變では赤い軍帽で野戰に出ていて、その後、日支事變に入ってから漸く鉄帽が通常の野戰装備として認識されたようです。叛乱部隊は、要人襲撃と要地占領が戦術目的で、まさか皇軍相打つ事態にまで行くとは想定していなかったフシがあります。
出動部隊の兵隊そのものが、何をしに行くのか余り分っていなかった様子で、下士官すら当夜、中隊長室に集められて趣意書を読み聞かされたけれど、難しい漢語ばかりで意味が分らなかったと、参加者の手記にあります。
深夜、班長が二年兵を個別に起して營庭集合させ、その装備をつけるのを手伝った初年兵が寝ていると、今度はそれにも集合がかかり、營門を出発したといいますが、これを見送った衛兵司令は夜間演習だと思わされたようです。
あるめ
- あるめさん。
スチールヘルメットが国際的に普及したのは、WW1です。日本軍も多少は参戦したのですがヘルメットは装備されていません。シベリア出兵でも使われた形跡はありません。ヘルメットに関しても時代遅れだったわけです。それで日本陸軍の誰かが外国の事例を引用してヘルメットがないのは兵の士気に関わるとでも主張したのでしょう。日本軍が最初にヘルメットを使用したのは1926年(昭和2年)の済南事変からです。満州事変ではほぼ全員が着用していたようで http://members22.cool.ne.jp/~syasinsyuu/a2.htm に当時の写真があります。昭和7年には後に戦闘帽といわれるライナーの役割の略帽も制定されてます。従って、反乱軍が赤いリボンの制帽で出動したのはなんらかの理由があると思ったわけです。例えば、鎮圧部隊との識別とかです。しかし、反乱部隊は白襷などで識別も考慮していたようなので、まあ、鎮圧部隊の出動は予想してなく、単に重いからもっていかなかったのではないでしょうか。
予備役航空兵特務曹長
- 予備役航空兵特務曹長様
>シベリア出兵でも使われた形跡はありません。ヘルメットに関しても時代
>遅れだったわけです。
シベリア派遣軍にも一部が支給されたと聞きます。
また大正期中庸より各國の鐵兜(この時期はまだ鐵帽ではなく鐵兜と呼稱)を輸入して、國産品との比較し檢討を行っており、國軍の鐵兜が他の世界列強に對して遲れてゐたとは思へません。
>昭和7年には後に戦闘帽といわれるライナーの役割の略帽も制定されてま
>す。
略帽の制定は昭和十三年であり、滿州事變當時はまだ試作品です。
>鎮圧部隊の出動は予想してなく、単に重いからもっていかなかったのでは
>ないでしょうか。
當時の鐵帽は「防彈被服」の名稱で近接戰鬪時の機材として位置づけられてゐたために、あるめ樣が言われる反亂部隊では裝備できなかったものだと思ゐます。
ひめみやきりん
- 鐵帽は、今で云えば扱いが「防弾チョッキ」の類で、個人装備としてあまねく装備されていたわけではなく、満州事變においても赤い軍帽姿の兵隊の写真を見ることが出来ます。例えば、H・シュネー「満州国見聞記」(2002,講談社学術文庫)のp117には、奉天城門での日本軍の隊列がありますが、これは全員赤帽となっていました。出征用個人装備としてではなく、戰地にて特殊被服のひとつとして支給されたのか、とも思っています。
事件当時の写真をみると鎮圧部隊の兵隊が戦闘帽を被っていますが、これは制式となる前のものなのでしょうね。なんにせよ鎮圧部隊の意気込みが伝わってきます。翻って叛乱部隊は、最終的にそう認識される以前は正規の首都警備兵力として自他ともに認めていたわけで、役目が終れば帰營すると簡単に思っていたフシがあり、まさか叛乱軍となって本格的戰闘に至るとは思っていなかったようです。
あるめ
- あるめさん
簡単にはヘルメットを持ち出せなかったということでしょうか。安藤大尉の部隊だけでなく、他連隊からの反乱部隊も赤軍帽ですよね。兵籍剥奪された磯部1等主計などは反乱当日に軍服に着替えたようですが、赤軍帽が最も常識的な服装だったのでしょう。
ひめみやきりんさん
まず、済南事件の勃発は昭和2年ではなく昭和3年です。わたしの誤りでした。
大日記乙輯昭和02年の9月に 鉄兜交付の件 というのがあり
〜左記 (昭和2年)9月19日 鉄兜 一個 通牒 副官ヨリ陸軍兵器本廠長ヘ被服品研究ノ為メ左記器材陸軍被服本廠ヘ交付方取計ハレ度依命通牒ス 〜 とあります。
陸軍省より兵器本廠へたった1個のヘルメットが研究用に交付されたようです。シベリア出兵では使われてなかったと思います。現地調達でヘルメットを使ったかもしれませんが、正規のものではないでしょう。本格的使用は済南事変からだと思います。
略帽については昭和7年ではまだ試製だったかもしれません。しかし、ヘルメットは満州事変のみならず、上海事件での海軍陸戦隊も使用しています。ライナーとしての戦帽もかなり使われたのではないでしょうか。
昭和10年 「來翰綴(陸普) 第1部」 昭和10年02月15日作成 というのに
〜演習並營内ニ在ル場合(衞兵勤務及廉アル場合ヲ除ク)ニ限リ軍帽ニ代ヘ委任経理雑品トシテ戰帽ヲ使用シ得ルコトニ定メラレタルニ付依命通牒ス〜 とあります。衛兵など格式の要求される勤務以外での使用が認められたようです。略帽と言う名称で正式化されたのが昭和13年のようです。
予備役航空兵特務曹長
- 予備役航空兵特務曹長様
> 大日記乙輯昭和02年の9月に 鉄兜交付の件 というのがあり
これは文面に「・・・陸軍兵器本廠長ヘ被服品研究ノ為メ・・・」とあるとおりに、この時點では「兵噐」扱ゐである「鐵兜」を「被服」として研究するために交付した旨を傳へる通牒であって、この時點の『ヘルメット』は後の「被服」扱ゐになってゐる「鐵帽」ではありません。
>シベリア出兵では使われてなかったと思います。
シベリア出兵でも使用しておりますし、大正期中庸から後期にかけて陸軍歩兵學校で國産鐵兜の使用試驗や對彈試驗が行われてゐます。
>ライナーとしての戦帽もかなり使われたのではないでしょうか。
制式ではなく増加試作の形では滿洲事變の戰鬪部隊や關東軍でも多用されてゐます。河原挺身隊での仕樣寫眞が現在でも多見されます。
ひめみやきりん
- ひめみやきりんさん
何度も、ご回答ありがとうございます。もし、よろしければですが、シベリア出兵や、大正期の対弾試験など何らかの資料がありましたらお教えいただけないでしょうか。私には大変、参考になリます。
なにとぞ、よろしくお願いいたします。
予備役航空兵特務曹長
- 予備役航空兵特務曹長様
大正七年から八年にかけて陸軍歩兵學校では、國産鐵兜と輸入したドイツ・フランス等の鐵兜に對しての小銃彈射撃を行っての貫通實驗や、杭に固定した状態の鐵兜に對しての砲彈破片の對抗能力の試驗を行ってゐます。
ひめみやきりん
- →7
部隊に「ヘルメット」と戦闘帽の備蓄があったかどうかさえ不明です。当時の營内生活では部隊員総て赤帽を被っているので、戰闘には必ず鐵帽を被って臨むと云う頭がなかったのではないでしょうか。もしあれば、常時から戦闘帽を被っているはずなので。
また外地と内地とでは、赤帽と戦闘帽の常用度に温度差があり、日支事變開始後、外地から遺骨宰領で内地に出張してきた戦闘帽常用の兵隊が、内地の兵隊がほとんど赤帽で外出しているのを見て、おもちゃの兵隊みたいだと思ったと云う、有馬さんの小説を読んだことがあります(「兵隊やくざ」だったと思います)
こういう混在の時期を経て、鐵帽・戦闘帽が制式化されていったのでしょう。ある時期から斉一的に切り変るということのないのが、陸軍の被服で、昔の軍衣軍帽をつけていても別にとがめられませんでした。
あるめ