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広島に原爆が投下されたキノコ雲を見た軍人が広島の火薬庫がやられたと言う文章を見たことがあるのですが。この火薬庫の規模はどの程度で本当に爆発した場合どのくらいの威力、爆発があるんでしょうか? 三間 |
- 広島にどの程度の規模の火薬庫があったかは寡聞にして知りません。
私の知る限り、呉に在泊中の艦の乗組員が、『マニラ空襲での弾薬輸送船の爆発と同じように見えた』と回想しているのでその話を指しているのだと思いますが、あれだけの閃光と高度7000(?)に達するキノコ雲との見張り員の報告からは、弾薬庫の爆発と判断するしかなかったのではないでしょうか。
能登
- よくわからないけど、霞町の陸軍兵器廠の弾薬庫は戦後も健在しているようですね。
片
- >霞町の陸軍兵器廠の弾薬庫
この経歴を軽く辿ってみると…
・1897年,基町(もとまち・中区)に大阪砲兵工廠広島派出所設置
・1905年,広島陸軍兵器支廠に昇格
・1907年,同兵器庫設置
・1918年,霞町(南区)に移転
・1919年,火薬庫大爆発
・同年 火薬庫を似島に移転
ってな具合です。陸軍のことはよく知らないので何とも言えないのですが,火薬庫が似島へ移転したのならば,霞町では爆発しないのではないか…という気がします。
それか,もしかしたら「広島の火薬庫」というのが,似島のことだったのかもしれません。
なお,同建物は片さんが書かれた通り,戦後も健在でした(爆心からは結構近かったが,比治山が影になった)。1957年から広大医学部・附属病院として使われてきましたが,全18棟のうち,90年代まで残った2棟を除いて70年代に入って立て続けに取り壊されてしまいました。
そのうち,1号館は93年2月5日に取り壊されています。最後まで資料館,食堂として残った11号館も,99年に医学部正面入口に移築が行われています。レンガや外壁,窓枠や屋根は元の資材をそのまま使用していますが,まぁもう被爆建物と呼べるものではありませんね。
ごみ。
被爆した人の中には,「ガスタンクが爆発した」と思った人も居たようですね。
長楽寺鶴川
- あー。詳しい事は知りませんが、広島〜呉のあたりには幾つもの弾薬庫・火薬庫があったみたいです。
ちなみに、地図見て知ったのですが、似島の南隣が江田島っすね(当然ですが海軍の火薬庫がある)似島の西側にある宮島には陸軍の火薬庫があったそうです。それと宇品に火薬廠があった筈。
まあ、あのあたり、火薬だらけですな(;_;)
SUDO
- 現在も自衛隊や米軍の弾薬庫、中国火薬という火薬メーカーがあります。
ジもっと
- 私の母は呉出身で、昭和20年当時8歳でした。その母の記憶では、近所ではもっぱら「ありゃあ矢野の変電所がやられたんじゃ」といううわさだったそうです。
大名死亡