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はじめまして 私は 歴史や 軍事 そして 兵器の事に 大変興味があります 質問ですが 鎌倉時代 蒙古襲来 がありましたが その時 蒙古軍は 火薬を 使った 武器を使用 しましたが 当時の日本人は 火薬を 使った武器を 目の当たりにしながらも その後 火薬を 使った武器は 戦国時代 の鉄砲伝来 まで 姿を 消すのも 不思議でし方ありません また 蒙古軍 の使った 短弓 や クロスボ− 投石器(デッカイパチンコ) も その後の 日本の イクサ には 見かけません 蒙古襲来 により その後の 日本の 戦いの 様式が 変ったと 歴史の 教科書で 読んだことがありますが 私は 兵器の面では あい変らず 日本人は 進歩していなかったと思いすが いかが でしょう? また 蒙古軍は 対馬.壱岐島 を 文永 弘安 の 両役 で 占領し 島民を 虐殺しますが なぜ 戦後も 対馬 壱岐島 に 兵を 駐留 させなかったのでしょう? せっかく 占領した 島なのに 兵を 置かないのも もったいない話しですね 九州 攻略の 補給拠点 や 前線基地に なぜしなかったのか いまだに不思議です 歴史家の 方の ホ−ムペイジに 質問してみましたが そんな事 いままで 思いも つかなかったと 言われてしまいました (笑い) では。 芭蕉 |
確かに、思い浮かびませんでした(ド素人ですけど)。
あと失礼ですが、文節ごとのスペースは抜いていただいたほうが読みやすいのですが。
居眠り将軍
日本では火薬(黒色火薬)の原料となる硝石が産出しなかったと思うのですが・・・(中国などから輸入されていたかどうかは寡聞にして不明(;^_^A)
勉強不足なのですが、戦国時代の鉄砲伝来以前に、日本に鉄砲のような火薬武器があったかなかったかどうかについては諸説あるようです。宮崎駿の映画『もののけ姫』もそれを踏まえて時代設定されていると聞きます。
ブラック・タロン
要するに、中国やモンゴルの平原において有効な戦術は、山がちであり戦場の状況がかなり異なっている日本では、必ずしも有効ではないのです。
アリエフ
日本でも火薬は使わないものの、矢の先に油を染み込ませた布をつけ燃やして撃つ「火矢」があるし、飛びながら大きな音を出す矢もある。長弓が、蒙古流の短弓と火煽の組合せに取って代られる必要性が薄かったからだと思いますが。
アリエフ
占領するという行為は、何かの利益があって意味を持ちます
どちらの島もそれを保持する事で何らかの経済的な利益が有るのでしょうか?
もし、攻略部隊を出すときにだけ役立つ存在ならば
その時にだけ一時的に占領しても実用上は困らないでしょう
まあ、負け戦の混乱した撤退騒ぎで放棄されてしまっただけなのではないかと想像しますが(笑)
SUDO
ここに製造法解説があります
http://www.wao.or.jp/smiwa/powder/miwa/kayaenosita.html
蒙古の襲来は指揮官だけが蒙古で、実際の兵は高麗だったので あまり戦意は高くなく そこそこで引き上げることを考えていたようです。蒙古としても占領が目的ではなく朝貢に応じさせることでしたから 大軍での恫喝を主に考えていたようです。ですから 小競り合いだけで帰っています。本格的侵攻ではないので そのための補給基地としての占領は考えてないのでしょう。
vought
2を書き込んでから、そーいや『たけしの万物創世紀』で発酵を特集したときに縁の下で硝石を作る方法があったなぁと思い出して書き足すのを忘れてました(;^_^A(爆)
ブラック・タロン
私が知っている範囲内では,どうも室町時代中期に中国製(明か?)の銅製小銃が伝来していたとの記述がありました。これの使用については,甲斐武田家の軍書『甲陽軍鑑』に記述があるそうです。威力が弱く,当時の兵器の水準としても実用的ではなかったとされています。そのため,武田家は種子島銃(いわゆる火縄銃)を武器として採用せず,後の信長との戦争に敗北する事になったといわれます(但し,以上の情報は中央公論社版の『日本の歴史』からの孫引きです)。また,私の出身地である徳島においてもこれの出土例があるようで,16年ほど前に当地の公共施設(郷土文化会館)で開かれた鉄砲関係(火縄銃など)博物展において展示されておりました(当時,パンフレットをもらったのですが,数度に渡る引っ越しのため,現在紛失しているため,記憶モードです)。
また,火薬の件ですが,故郷の徳島は江戸時代全国有数の藍の産地であったため,その製造工場の土から硝石(主にCa(NO3)2か)の大量生産が行われていたといわれます。この技術は恐らく先のレスにもありました飛騨高山と同系列の技術が使用されていたのではないかと考えます。
となりの大トロ
蒙古が使った火薬兵器「てっはう」は、防御兵器だったこと、また最近の研究によると、日本の武士団も盾突合という集団戦術を盛んに用いており、一騎駆けが主流ではなかったことなどが書かれている。元寇に対する従来の通説、イメージはかなり再検証されなくてはならないようです。総じて、元軍に対し日本の武士団は五分五分の戦いをしていたと思えるし、元の兵器がそれほど日本のものより強力だったようには見えない。
http://village.infoweb.ne.jp/%7Efwns5885/histo2.html
アリエフ
アリエフさん,クロスボーは馬の上で使うにはどうも不便なようですよ(学研の戦略戦術兵器事典@中国古代編参照して下さい)。例えば,中国では,弓を盛んに使うようになるのは,騎馬戦術が一般化してからのようです。
となりの大トロ