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16世紀の日本で鉄砲が急速に普及したのはなぜでしょう?欧州に比べて早すぎるように思います。当時の鉄砲がそれ程魅力的だったとも思えませんが。 矮鶏 |
ちょうど日本が戦国時代で飛び道具としてこれまでの弓矢などに比べたらはるかに強力ですし長篠の戦などが鉄砲の威力を伝説化させたからだと思います。
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鉄砲は役に立たなかった、無くても織田信長は勝てた、といった内容の出版物があるので気持ちは揺らぎますが、やはり鉄砲は決定的な兵器なのです。
何故なら、当時最も高価な軍事的建造物である戦国後期の城郭が鉄砲、または火砲の影響下にあるからです。防御側の兵器として、決定的な優位を実現する兵器であった為に必要とされ、弓矢に比較して慣熟が容易なことが普及を助けたのでしょう。鉄砲の防御兵器としての有用さが戦国後期の野戦築城の発展にも影響しているのだと私は考えます。
BUN
鎧をぶち抜いて一撃で相手を倒せる魅力は残ります。
一般的な戦いを砲戦とすれば、魚雷の様な物です。
全国各国総力戦で負ければおしまいの可能性大という時代なわけですから、
少しでも魅力が有れば必死でそろえたと思いますよ。
また、当時の日本の冶金技術も見逃せないでしょう。
戦乱によって大量の刀剣類の需要が有り、十分な鉄の鍛造加工技術が培われたからこそ製造できたのです。
ダークマター
あんぼー
種子島の刀鍛冶・八板金兵衛による模作から始まった日本の火縄銃は、伝来の翌年に津田監物によって紀州根来に持ち帰られ、本土に伝播します。そして、堺と国友を2大生産地として各地で生産され、戦国大名の庇護を受けて、ヨーロッパとは異なる日本独自の発展を遂げていくことになります。
軍用兵器としてはまだ発展途上といわざるを得ない火縄銃ですが、当時の戦国時代の日本では画期的な新兵器であったことは疑いないでしょう。その性能に着目した戦国大名たちはこぞって導入しましたが、本格的な主力兵器として大量運用したのは織田信長が初めてだったといわれます。
長篠合戦で織田信長軍が動員した鉄砲隊は一説に1,000〜3,000と言われています。が、鉄砲だけで7,000〜10,000と言われる武田勝頼軍を壊滅させたわけではありません。織田・徳川連合軍の兵力の方が多く(一説に15,000〜25,000)、鉄砲を含むあらゆる武器の数が多かったということです。それに、合戦当日の天候は雨上がりで、鉄砲を使うには適した環境とは言い難かったようです。
なお、長篠合戦で織田軍が駆使したと言われる『三段撃ち』ですが、最近では三段撃ちはなかったのではという説が強いようです。銃隊列を3つにして交互に撃たせ、火縄銃の欠点である装填時間の穴を埋めるというのが三段撃ちの考え方ですが、実際には早合と呼ばれる装填器があり、長篠合戦時にこれが存在していれば、隊列を3つにしなくても継続した射撃が可能であったと思われます。
ちなみに、当時のヨーロッパでは、火縄銃は画期的兵器ではあったものの、発射に火が絶やせないため全天候下での使用に適さない、煙で見つかりやすい、命中精度が低い等の軍用兵器としての欠点が多く、戦場を大きく変えるほどの存在ではありませんでした。銃が刀槍や弓矢に代わる兵器として完成するのは、16世紀中頃のフリント・ロックの登場を待たなければなりません。
ブラック・タロン
弓や槍で戦われる戦闘では、ちょっとした尾根筋などに作られた山城を攻略することも容易ではありません。このため戦国前期には、動員兵力数十人程度の土豪が大きな政治的・軍事的立場を持っていました。
国内的には、戦国大名はこうした領域内の土豪に常に気を配った政治を強いられていました。ドラマに出てくる口うるさい家臣たちです。
対外的にはには防衛拠点としての山城の脅威が大きいため、侵略戦争のコストはたいへん大きなものでした。
鉄砲は高価な武器であり、装備できたのは有力大名に限られています。鉄砲の普及によって、鉄砲を持てる大名と持てない土豪との間では、武力と発言力の格差は大きくなりました。国内的にはうるさい家臣団の意見を抑えて、より専制的な政治を行うことが可能となりました。そして国内を統一した有力大名たちが、近隣の小勢力を併呑しながら全国統一を目指して争い続ける戦国後期の時代が訪れたのです。
鉄砲の伝来と普及がなければ、戦国時代も南北朝の内乱のように、決定的な決着がつかないまま長引いた可能性が高いと思います。
また、戦国時代の火縄銃は、遠方からの射撃でも十分な殺傷能力をもっており、当時としては驚異的な武器であったことも申し添えておきます。
ともさん@2CV
鉄砲が伝来したのはちょうどこういう時代背景の真っ只中で、特に信長のように既定観念に囚われない新しいタイプの指導者の目には「槍よりも長い槍」として違和感なく受け入れることができたのではないでしょうか。
日本刀と剣技への評価は徳川政権によって鉄砲が厳しく規制された江戸時代になって復活し、特に江戸末期にその最盛期を迎えるというのは何とも皮肉ですが。
ささき
欧州ではずっと後世に装甲機動車両が登場するまで、騎兵はそれなりの価値を維持し続けているのですが。
ひょっとして、これは「日本の戦場が狭く山がちで、おまけに馬体が貧弱なので騎馬戦闘が発達しなかった」ことと関係あるかも?
ささき
例えば武田の騎馬軍団なんかは有名ですが、その強さは騎馬武者の集団運用が可能だったことに由来すると考えております。集団運用を可能にしたのが信玄の専制的な支配体制でした。信玄は領内の家臣たちに対する支配を確立するのにその前半生を使っています。
家臣たちのの独立性が強ければ、そもそも騎馬武者だけを集めた部隊編成ができません。また当時の土豪的なサムライのモラルでは、不利な戦闘は拒否し負け戦ではさっさと逃げてしまうのが一般的でしたが、この点でも武田の家臣たちは違っていたと思われます。ただし命令にたいする服従心が強いために、その後長篠の合戦では絶望的な突撃を行い武田騎馬軍団は崩壊してしまったのですが。
同じこと(同一兵科の集団運用)を鉄砲部隊で行って成功したのが、信長、秀吉、家康などでしょう。
ともさん@2CV
甲斐国出身で門前の小僧的に武田三代の話を聞かされていました。
とある郷土史家が、信玄公の世になってから仕えたり、とりたてられたりした者は武田家に仕えたという意識より信玄公に仕えたという意識が強かった。彼らが主亡きあと華々しい死に場所を求めていたところに、これに勝てば再び天下が見えるという長篠の合戦となった。彼らはこここそ死に場所と死を恐れぬというか死に急ぐような突撃をしたという説をとなえていました。
SHI