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酸素魚雷の開発以前に決戦兵器として用意されていた「一号機雷」は大戦中どうなってたんでしょうか?沖縄戦の直前とかに台湾あたりから黒潮にでも乗せて流せばそれなりに効果が期待できたんでは?と思います。あと、いわゆるスプーンバウはこの機雷を乗り越えるための装備ということであってるんでしょうか? taka |
一号機雷は放流後、一定時間(一時間という説がある。)で信管が無力化し、さらに12時間後には水没してしまいます。これは味方の艦隊が誤って被害を受けないための処置だそうです。
私の記憶では戦時国際法(現在では適用範囲も広がり、国際人道法と呼ばれている。)で浮遊機雷を故意にまくことが禁じられていて、一時間で無力化するのなら例外として使用を認めていたような気がするのですが、その明文規定を私は未だに見つけられません。(海戦に関する交戦規定は見つけにくいのだ。)さらに、最近のこのHPを見ている方はお気づきでしょうが、私の記憶は全く当てになりませんので、ご注意を。
あと、スプーンバウですが、これに関してはさほど効果は無いのではないかと思います。
一号機雷は1915年実用化研究開始、1921年制式採用ですが、1924年の演習の結果、実用の機会が少なく、危険性大との報告が出されています。スプーンバウが機雷除けとしてきちんと機能するのならこのような報告は無かったのではないかと思いますから。
なにより、軍縮条約解禁後にクリッパーバウやバルバスバウが各種艦艇に採用される中、甲型駆逐艦があえて凌派性の悪いスプーンバウを採用しているからには、他に理由があるのかと思いますが、浅知恵でしょうか。
tomo
SUDO
特雷→乙雷と名称が変遷。後に大正5年4月、1号機雷と命名。
一号機雷乙:1号機雷甲を改良し、炸薬量を倍増(45s→100s)
大正10年9月、制式化。従来のものを甲と呼称。
昭和4年小演習、昭和5年大演習、および昭和5年巡航中の実験により
一号機雷の使用機会殆ど無く、また、巡航中の一号機雷敷設難渋である
ことから、一号機雷は魚雷を消耗した後の窮余の策でしか無いと判断さ
れるに至る。
その結果、一号機雷を搭載するよりはそのスペースを魚雷に当てた方が
有効であろう。との結論に至った様です。
また、敷設後の漂流?時間は1〜1.5時間であり、台湾〜沖縄間では
とてもその時間内には到達できないでしょうし。仮に時間を長くしたと
しても、機雷の密度が薄くて有効とはなり得なかったと思われます。
takukou
にかけて記述があります。
>一時間で無力化するのなら例外として使用を認めていたような気がする
本文中にそのような解釈が可能であるという説明があります。
また、八八艦隊各艦については「艦首形状は・・・特殊機雷のためである」
と指摘してあります。機雷としては小型であり、あまり撃沈は期待していな
かったようです。福井さんの説では昭和17年上期でも軍令部は一号機雷の使
用を断念してはいなかったようです。
また、その後に建造された伊吹・雲竜型では八八艦隊型艦首になっている
が、これは設計の手間を省くためとあり、一号機雷とは全く関係がないとの
ことです。
tk
一応対策はしてたんでしょうね。
しかし、例の結論以降どの様になったのかは判りません。
takukou
takukou
この条約の第1条の内容は「管理を離れて1時間以内に無害とならない無繋維触発水雷、繋維を離れた後直ちに無害とならない繋維自動触発水雷及び命中しない場合に無害とならない魚形水雷の敷設、使用の禁止」だそうです。
第2次大戦以後の様子を見る限りでは、現在は死文化しているようですね。(^^;)
tomo