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572 五式中戦車への88mm砲装備案が無かったとなると、チリ車の開発意義が分からなくなってきました。チリの開発当初はチトが長57mm砲装備で計画されていたため、75mm砲装備戦車として開発が進められた、と理解していますが、それではチトが75mm装備に改めた際になぜ開発が中止されなかったのでしょうか。そもそも、何故同じ時期に主力戦車2形式の開発を進めたのでしょうか。
Sampon

  1. 追加:異なる設計で並行開発されることは珍しくないのですが、その場合は仕様や設計思想が大幅に異なることが多いのではないでしょうか(チハとチニとか)?大抵は保守的な設計と冒険的な設計を組み合せる(ティーガーの試作におけるポルシェとヘンシェルの例とか)のが普通だと思います。それにしては、チリの砲塔が鋳造一体型という以外にこれといった設計思想上の相違も見当たりません。
     余裕のある国なら、保険として何種もの兵器を競争試作させるということもあるでしょうが(そういえば二次大戦期英国の巡航戦車は大差無い仕様のものが幾つもありますね)、当時の日本に主力戦車を同時に複数開発する余裕や理由があったとは考えにくいのです。
    Sampon

  2. 武装が違い、目的も目標も違ったからだと思います

    SUDO

  3. 実の処チト車の75o化が決した(問題無く機能する事が確認された)時点でチリ車の整備は破棄されております。チトに75o長砲が実装されたのは20/2のことですがこの射撃試験の結果を受け、20年度以降に整備の五式75o(長)砲はチト車用のII型で発注とされ、またこの時点で1門のみ存在するチリ車用のI型もチリ車試作1号竣工と同月の20/3にチヌ車用砲塔(兼チト車用全溶接版75o用砲塔)向けに適合改修されております。(つまりはその備砲を撤去、転用したのではなく端からチリ車には載せられていない)

    19年度末に建てられた生産計画にもチリ車の予定は盛り込まれておりませんし、終戦時の資料を見ても試作1号を除き、組立中も含め他には一切の現物も存在しておりません。代わりに予定より多くのホリ車が組立て中でありますから試作2〜4号の資材はこちらへ転用されたと見るべきでしょう。(一部資料では確かに「試製五式」を冠しておりますから仮制式申請迄は運んでいた可能性も有ります)

    それでも試作1号が完成に漕ぎ着けているのは、既に竣工間際であった事の他その車体の運用実験により得られる結果から、こちらは開発継続中で類似した規格の車体を用いるホリ車に対して有用な情報を与え得るとの判断からでしょうか。(実際には完成後も終戦まで丸子に在りましたが...)

    処でチト車とチリ車の開発は別に二本立てであった訳ではありません。
    1年程開発が先行するチト車の方は通常の後継兵器開発の流れに則ったもので特に差し迫った驚異に対したものではなく、あくまで従来の旧軍に於ける尺度で戦車と言う兵器を捉え将来に備えた、言うなればチヘ車の拡大発展版でありました。(提案は試製チヘ車竣工と同時)

    それに対しチリ車の場合は主に独ソ戦の情報等を受け急遽開発を取り決めたもので(主用途として敵戦車の駆逐が前提で75o級長カノン装備を想定)、今次大戦に対応させ得るよう完成を急ぐが為、大威力加農を装備可能とする前例の無い大型車輌を基本的に既存技術を用いる事で早期に完成させようとした計画です。
    (とは言え後のチヌ車開発の状況程切迫してはおらず、また経験の無い規模/性格の車輌であった為半自動装填装置やバスケット式戦闘室、副砲の付与と言った実験的な試みも多い)

    思うに現実的な戦力化をそれ程強く意識していた訳ではなく、諸外国の趨勢に鑑み同規模/性格の車輌製作に挑もうとの観点から計画を推し進めた面もあったのではないでしょうか? 開発期間短縮の為とは言えガソリン機関の採用は戦力化に際し大きな障害と成り得る事は容易に想像出来た筈です。恐らくは実験車(技術実証車)的な存在であった本車が戦局の影響を受け一時期に於いて制式機材として注目された、この様な実状であったのではと捉えております。

    その後米軍のマリアナ来寇を受け緊急開発される事になった(元のチト車と同じ砲塔を載せた)当初案のチヌ車(57o)がその対戦車能力の不足を指摘され75o加農(野砲級)を装備へと改められた事により、必然的により有力なプラットホームたるチト車の備砲が見直されチリ車向け主砲の転用が決りますが、こうなると防御力に大差の無い両車(装甲厚は一長一短)では、資材をより多く必要とし(大型故)加えて貴重なガソリンを燃料とするチリ車に対しその戦力化が不適当との判断が下るの事は自然な流れでしょう。

    モデラーでもあり仮想戦記(モノによりますが...)も嫌いではない我が身を追い込む様な事ばかり綴っておりますが、兎に角8/15以降の展開が有り得た場合でも檜山先生の「日本本土決戦」中に有る様な戦車戦は現出しないと言う事です。(チト車でもかなり怪しい)

    しかしチリ車開発の全てが無駄であった訳ではありません。ホリ車の開発は勿論ですが何よりチリ車II型の存在が大きいと言えます。その基本構成を見ても解る通りこのII型の直系こそ61式中戦車なのだと言えるのではないでしょうか。
    落馬童子

  4. もしや落馬童子さんはチト車の75mm換装はマリアナ戦以後に決定されたとお考えなのでしょうか?そう読めてしまいましたので・・・。
    BUN

  5. >>BUNさん

    >チト車開発の流れ
    本車の計画の変遷は公式には以下の様なものであると捉えております。

    17/9 −新中戦車(丙) > 20t/57o砲ないし75o加農
    18/6〜7−新中戦車(甲) > 25t/試製五十七粍戦車砲(長)砲
    19/7 −新中戦車(甲) > 試製七糎半戦車砲(長)
    落馬童子

  6. チト車の主砲換装はマリアナとは全く関係がありません。少なくとも十九年四月には公式文書中に製造計画が現れますし、この時はチリ車へのオーダーも出ていますから、両者は同じ長七糎半戦車砲搭載戦車として平行して開発された次期が少なくとも数ヶ月はあるのです。
    BUN

  7. あくまで公式にですが、チト車の備砲が75o長砲に決したのは19/7の修正事項「◎戦37」によってです。それ以前の段階では候補の一つに過ぎず未だ絞り込みがなされていなかった筈です。75o砲化自体については以前より検討がなされておりましたが、75o長砲の採用を最終的に促したのはチヌ車の75oカノン採用であると思われます。その意味でマリアナ来寇(の予想)は無関係では無いと言えはしないでしょうか?

    また、もとより並行開発については否定しておりません。

    >実の処チト車の75o化が決した(問題無く機能する事が確認された)時点でチリ車の整備は破棄されて〜

    ...と、述べております様に、20/3のチト車に車載しての各種射撃試験の結果を受け、チリ車計画の破棄が下されたのでしょうから、確かにこの間の期間は並行開発の状態でありました。

    チヌ車への75o砲採用の流れより前の段階に於いて、チト車の備砲が絞り切れていないとします根拠として以下の内容を挙げさせて頂きます。

    ○ チト車への採用公式決定と同月(19/7)に竣工の試製七糎半戦車砲(長)試作砲2門は全てチリ車向けのI型仕様で完成している。

    ○ 19/8に竣工の三式七糎半戦車砲II型試作砲はチヌ車(チヘ車体)ではなくまず最初にチト試作車へ載せられ(同月中)射撃試験を行っている。(恐らくは19/6の三式砲II型研究開始の時点ではチト車への適用も考慮していたものと思われる)

    ○ 試製七糎半戦車砲(長)は20/1時点でもI型として各種試験を受けている、チト車への車載は翌月。(佐山氏などのご表現ではあくまで急遽II型への改修を実施とある) その後II型砲の生産実績は20/4・5にそれぞれ1門づつですがこれはどう考えても19/7の公式決定以降の発注と思われる。

    これ等の事柄から、19/7以前の段階ではチト車の武装強化案が確定してはいなかった事、75o長砲のチト車への適合がけして早い時期から計画されていた訳ではなかった事、この様な状況が伺えます。
    落馬童子

  8. 一部言い回しを補足させて頂きます。

    〜19/7以前の段階ではチト車の武装強化案が確定してはいなかった事、75o長砲のチト車への適合がけして早い時期から計画されていた訳ではなかった事〜

    >チヌ車75o化以前の段階ではチト車の新備砲が確定してはいなかった事、試製チト車車載用の試製I型砲の改造ないし試製II型砲の調達がけして早い時期から予定を組まれていた訳ではない事〜

    チト車の開発計画の変遷をより詳しく整理させて頂きますと、

    ○ 17/9−新中戦車(丙) > 20t/57o砲ないし75o加農

    まずはこの様な内容で提案されておりまして、当初から75o砲が候補に挙がっておりますから基本的に75o砲換装にたいする敷居は低かったものと思われます。

    ただこの時点では未だ試製七糎半戦車砲(長)の開発は始まっておらず、また計画重量も20t級でありますから、新規開発(可能性は低い)であれ既存火砲からの改造であれまず間違いなく野砲級のそれを想定したものでありましょう。

    (横路)
    57o戦車砲の方は資料が極端に少なく詳しい事はよく分かりませんが、まずは16年度に甲/乙2案(旋回砲塔用/固定防楯用)の駆逐戦車向け備砲が計画に挙がるものの後に計画見直しとなり、そして一式47oと競合された57砲o砲(甲砲と同一か?)も戦力化が見送られた様ですので、ここで挙がっております57o砲とは(75o加農と言う表現と同様)恐らくは未だ詳細が纏まり切ってはいない状況でその改良型を想定したものでありましょうか?
    因みにこの時チト車と同時に提案されました57o砲固定低姿勢の特殊中戦車(新中戦車・乙)が前述駆逐戦車計画乙案(自走砲ホニ駆逐戦車化型)の焼き直しな様ですので、見方によってはこの時のチト車(新中戦車・丙)も同駆逐戦車計画甲案(砲戦車ホイ駆逐戦車化型)の焼き直しとも受け取れそうです。(この時期の「駆逐戦車」と言う用語はかなり広義な様ですし)

    (本筋)そして、
    ○ 18/6〜7−新中戦車(甲) > 25t/試製五十七粍戦車砲(長)砲

    ...に至り、それ迄旧(丙)案であった「チト」車は旧(甲)案=「チヘ」車の開発完了及び旧(乙)案の計画中止を受け、改めて新中戦車(甲)となります。備砲が正式に57o長砲とされ、諸外国の趨勢を意識してか装甲のみ若干強化が図られ計画重量が25%増しとなっております。

    さてこの同時に新規提案されました新中戦車(乙)ことチリ車の開発理由に於いて75o長カノン戦車の必要性が確かに認識されておりますから、この後チト車の備砲たる57o砲の性能に対し威力不足との見解が挙がった事は間違いないでしょう。

    18年度は戦車関連の機材更新を抑制しておりましたが19年初頭に至りようやくチヘ車の整備に着手します。これは戦闘の焦点が本格的に要地防衛の為の地上戦へ転換するであろう予想からでしょう。

    以前話題にさせて頂きました元三菱工員の方のお話では、「チヘの本格生産体制構築に際しドイツ人が指導に訪れた」、「チヘの生産からはそれ迄の雑多なラインと違い本格的に整理された流れ作業になった」、「18年度の年度末〆の所長と軍関係者の訓示がチヘの大量受注について触れ、これまで以上の戦車の重要性を説かれた。この時は満州が危ないのかと頭に浮んだ」

    チト車の武装強化案が実際的な検討に着手されたとすればこの時期ではないでしょうか?

    米軍による中部太平洋への実際の侵攻をだけを取り挙げますと確かに語弊がありますが、要は以下の様な流れであったのではと考えます。

    「19年初頭絶対国防圏維持の観点から地上兵器の重要度が増した事によりチトの戦闘力不足が表面化し、その対応策が幾つか持ち上がる。その内の一つがチリ車と同じ備砲の採用案であるが(これが本命であったとしても)、件の砲は未だ試作砲も竣工しておらず適性を確かめるにもその後の戦力化にも時を要する為、威力は劣るものの戦力化の易い野砲改造案も併存していた。19/5至りチト車の実車が完成をみ、新たな備砲の選定作業が実働に移ろうとしていた中、現戦力化中のチヘ車に見切りがつけられより対戦車戦闘力に優れたチヘ系車体の改造車輌の開発が決定する。チト車からは見限られようとしていたものの開発自体は完了し直ぐにも生産移行可能な57o砲が当初その主砲として選定されるが、57o砲はここでもその効力を否定され、この応急車輌の備砲としては野砲改造の75o加農が選ばれた。こうなるとより有力なプラットホームであり正規の更新機材たるチト車の方には更に強力な備方を充てようとするのが自然な流れで、必然的に最も高威力の試製75o長砲に採り決められる。こうして19/5〜6時点で纏まった開発側内部の決定が各種手続きのタイムラグを要して上申される。そして...」
    (以上あくまで個人的な解釈です)

    ○ 19/7−新中戦車(甲) > 試製七糎半戦車砲(長)

    ...との兵器行政本部の正式決定に至る。


    ここまでの私の意見を要約させて頂きますと、

    ○ チトの対戦車戦闘力への不信は18年度後半には既に認識されていて備砲の換装も検討されていた。

    ○ 米軍の反攻を意識した地上戦備の拡充からこの問題の解決が実際的な動きとなったが実車も新型砲も現物が無い状況では最終決定には至らずにいた。

    ○ その後チト車の実車が完成し、それから間を置かず登場した75o加農チヌ車の存在がチト車に対する75o長砲採用の決定を駄目押しした。

    この様になります。
    落馬童子

  9. 武装強化案が確定していないどころか長七糎半は既に10門以上がチト車、チリ車用に発注予告されているのです。それぞれの数量も搭載時期も含めての事です。発注数量だけ見ても研究目的ではありません。逆に五七ミリの方がチト車完成の遥か前に研究対象からの削除を提案されている存在ですので二十年まで採否の決定を延ばすような砲とは考え難いでしょう。そして長七糎半戦車砲への換装方針は十八年度末辺りには決定していないと大造への発注ができません。
    また、マリアナ戦の件ですが、チヌ車自体が細部仕様を決定したのは六月二十日ですので、マリアナとは全く無関係と言えるでしょう。当然それ以前に砲換装の為のオーダーを出しているチトも無関係です。
    BUN

  10. 上のポスト何故か二重に入ってしまいました、お見苦しくて済みません。


    >「発注予告」
    まずこの内容が良く解らないのですが、それは19年度分の発注なのでしょうか?

    19/4の設計終了の時点で建てられた試製七糎半戦車砲(長)の開発時程は19/8に試製終了20/3に研究完了との予定で、実際には約二ヶ月の遅れが生じたものの一部試験が省略された事で結局ほぼ想定通りの運びとなっています。そして19年度末の整備計画で20年度に11門発注となる訳ですが、この門数が既に一年以上前の段階で「発注予告」されていると言う事なのでしょうか?

    それとも19年度分で10門以上を整備し同年度中に実車へ車載する計画なのでしょうか?


    >逆に五七ミリの方がチト車完成の遥か前に研究対象からの削除を提案されている存在
    ...この内容に異論は有りませんが、

    >二十年まで採否の決定を延ばす
    ...とは何処の部分に掛かっているのでしょうか?
    試製75o長砲I型とII型の採否が決したのは20/2〜3の試験での事と捉えておりますが、57o砲に関しては試作車完成以前の否定(18年中でなくとも18年度中)としております。ただそれが19/5頃の極短い期間、初期案のチヌの備砲として持ち上がった事、そして57o砲否定後のチト車の備砲候補が19年夏頃迄は絞り切れていなかったのでは?と述べていたのでありまして、57o砲の採否の決定が20年中にまで及んだとはしておりません。


    >マリアナ来寇を受けて
    前述しておりますが、「マリアナ戦自体」=「襲来の事実」ではなく「その予想」です。

    「絶対国防圏への脅威」を受けて > 地上戦備の拡充
    ...と、なりまして、
    「中部太平洋への侵攻」開始〜目前に迫った「サイパン上陸」の現実 > チヌ車の緊急開発

    ...と言う流れ、と解釈しております。


    BUNさんご紹介の資料の内容は全く私の知り得ないものでありますから、恐らくはそれが新事実なのでしょう。しかしながらその「発注予告」の通り18年度末の段階で、つまりは非常に早い段階で既にチト車に対する試製75o長砲の採用計画が纏まっていたとするならば、現実の状況と大きく掛け離れてしまいますのが気になりますです。
    落馬童子

  11. 現実の状況というよりも、それに対する一般的な解釈とかけ離れてしまう、ということでしょう。ただそういう事実があるということのみをお知らせいたしました。
    BUN

  12. またちょっと気になっているのですが、試製三式七糎半戦車砲II型が貸渡されたのは兵政補火砲第一六七四号 貸渡証票の日付から八月二十三日と思われます。この日付で「八月中のチトでの射撃試験」は本当に実施されたのでしょうか?これについてはどうお考えでしょうか。
    BUN

  13. 作家の国本です。落馬童子さん教えて下さい。
    またこの時点で1門のみ存在するチリ車用のI型もチリ車試作1号竣工と同月の20/3にチヌ車用砲塔(兼チト車用全溶接版75o用砲塔)向けに適合改修されております。(つまりはその備砲を撤去、転用したのではなく端からチリ車には載せられていない)
    とはどんな資料に書いてあったのでしょうか?

    私の手持ちの一次資料によれば、チリ用の一号砲は20.3.7に20.3.24に富士演習場で射撃試験を行う用決定されましたから。20/3にチヌへの適合化改修が行われるのは無理と思います。
    国本

  14. >>BUNさん
    >現実の状況というよりも〜
    私が気になりますのは、その「発注予告」の内容が全て20年度以降の実働している点です。18年度末に換装方針を決定、19/4に大造へ「発注予告」であれば、それは19年度年度中の作業に思えます。しかしながら19/4の設計終了時に考えられていた本砲の開発時程ではその研究完了自体が20/3の予定で、また現実の生産砲の出現も20/4以降の事です(20年度に11門の整備を予定)。この現実との掛け離れをどうしたものか思うのです。
    (「日本の大砲」で佐山さんが引用しておられる「◎戦37」の内容も誤りとは思えませんし...)

    只、BUNさんご紹介の内容は間違いないものと捉えておりますから、その辺りの擦りあわせ試みてみますと、

    ○ その「発注予告」は19/4の事ですので未だチヘ車大量整備の構想の段階、つまりは「チヘ>チト」と言う機材更新を考えていた時点での計画。

    ○ それが後の(19/5・6)のチヌ車の緊急開発/整備計画の登場で先送りとなってしまう。(現実にチトもチリも予定数を満たしていない)

    ○ 予定は遅れを見たものの19/7に「◎戦37」をもって改めて公式にチトの75o長砲での生産計画を発令。その後も悪化する生産状況やチヌの増産によりチトやチリの作業は遅れ史実の状況に。

    この様な解釈ではどうでしょうか?

    >「八月中のチトでの射撃試験」
    二次資料からの引用ですので何とも心許ないのですが、「8月に三菱で車載、その後に(翌月)に射撃試験を実施」とも受け取れます。

    ただ、この記述にある様に19/8に三菱でチトの作業をしていた事は確かな様です。
    件の三菱工員の方の当時の人員の遣り繰りについての日誌に名前が登場しております。(作業内容不詳、この日誌によりますと−この方が知り得た限りで−2度程砲塔の載せ換えで戻ってきていますが、全て同一車輌かどうかは不明)

    因みにチヘ/チヌ系車体の19/4〜20/8迄の(車種/年度内訳不詳)車体(含む砲塔)組立完成総数は318台(納入数ではない)で内19年度に2台x2回、20年度2台の「見本車」有り、加えて改造抽出(19年度/半途車台)が1台でありました。この日誌を綴られたご本人の方によりますとここに書かれておりますのは「新規組立てで、内部儀装を施した(動く)、完成車(組立て側からは手を離れた)」もの、だそうです。

    >>国本さん(初めまして)
    >端からチリ車には載せられていない
    前述三菱工員の方の元ご同僚の方のお話ではチリ車は20/3の完成後20/8の終戦時まで三菱を動いていないそうです。また「半途兵器保有状況調査表」(兵器行政本部)でもチリ車が終戦時三菱に在った事が判ります。

    >I型砲チヌ砲塔適合
    これに関しては佐山さんの著作に頼り切りであります。具体的には、過去ログでのI型砲とII型砲の関係に付いての記述でも挙がっております「大砲入門」です。

    (私が内容を確認出来ております一次資料は「試製五式七糎半戦車砲(長)II型機能弾道試験要報」くらいなものでして...)

    また、あくまで三式中戦車「砲塔」への適合とありまして、三式中戦車への搭載とはなっておりません。

    個人的にはこれは三菱の「チト」図にある様に従来式(平鈑全溶接)チト用砲塔向けの処置ではないかと考えております。
    落馬童子

  15. >2度程砲塔の載せ換えで戻ってきて〜
    これは全期間を通じてと言う意味です。(チトのラインの人員は全て他所との掛け持ちな為、チト関係の作業の組み込みでチヌのラインから人手が抜かれている旨の記述が有ります)
    落馬童子

  16. 落馬童子様、三式七糎半戦車砲の戦車搭載実験は十月初旬に行われているようです。この時の車両はどうもチヌのようで、八月下旬に貸渡されたものが九月中にチヌへの搭載作業を終え、十月六日からの運行、射撃試験、及び供覧射撃を行ったと見ると無理が無いように思えるのです。チトへの搭載と射撃が行われたとしたら非常に短い期間で搭載と取り外し、そしてチヌへの搭載作業が為されたと解釈することになるのでしょうか。
    BUN

  17. >>BUN
    確かに怪しくなってきましたね、今後は軽率な二次資料からの引用は慎みます。

    ただ、試製砲の門数は何門なのでしょうか? 19/9の三菱に於ける車体側の組立完成数は2輌となっておりますが、この2輌ともが装砲されて各種試験に供されたのでありましょうか?
    落馬童子

  18. 落馬童子さん 早速の御回答有り難う御座いました。
    長7.5センチに関する一次資料は、私の持っているものと、佐山さんがお持ちの物は同一のものなので、日本の大砲の記述を再検討して見ます。

    この一次資料は「研究原簿」といって唯一無二の公式記録であり、ボルト1本壊れてもその日付が判るものです。
    その中に、当初2門あったチリ用の戦車砲がチリ用1門、チト用2門に分けられ前者をI型、後者をII型とし、当初の2門の内の1門がII型に改造され、I型は20.3までは改造されていなかったのは誤りようの無い史実であります。

    それからどうなったかは公式記録には有りません。

    御疑問のチトとチヌに何時搭載して何時どのように試験したかもこの公式記録の中に記録があり、明白にされています。

    御希望が有れば解説いたします。
    国本

  19. >>国本さん
    ご丁寧なお応えを戴き恐縮です。

    >当初2門あったチリ用の戦車砲がチリ用1門、チト用2門〜
    これはチリ用1門、チト用1門で宜しいでしょうか?

    試製砲が2門で全てとしまして話を進めさせて頂きますが、

    >チトとチヌに何時搭載して何時どのように試験したか〜

    20/3/17〜19に於ける伊良湖射撃場での機能弾道性試験については把握してりますが、問題はこの後ですね。

    20/2に試製砲のII型を装載し、この試験に供されたチトは三菱に於ける新造車(20/2に製造実績有り−一次資料)でこの直後の2/23頃教導戦車旅団に移管されその後(終戦後)奥浜名湖への水没秘匿処置とされました。

    所謂青沼資料によりますと19/5に完成の57o砲装載チト1号は20年度に入ってからも暫くはそのままの姿であった様ですが、現在写真の遺っております千葉戦車学校管理のチトがこの1号を改修したモノであるにしろ新造車であったにしろ、20/3以降から20/7(千葉で実用試験を実施)迄の間の改修/製造と言う事になります。

    只、個人的にはこの車輌の備砲は恐らく20/4・5月に製造の生産型砲2門の内の1門ではないかと考えております。時期的に生産型砲の装載は可能ですし、残る1門の試製I型砲についてはやはり20/3/末ないしそれ以降にチヌ砲塔への適合改修を受けた可能性が高いと思えますからです。何故なら五式砲のチヌ砲塔への適合は前述の機能弾道性試験要報でも提唱されておりますし、三菱図にありますチトの姿もその様に纏められております。

    I型砲に関する一次資料は全くの未見でありますから、ご紹介の内容(富士演習場に於ける射撃試験)は非常に興味深く思います。
    落馬童子

  20. 落馬童子さんへ
    研究原簿の原文は以下のとおり、私がII型2門と書き間違ったように、佐山さんも勘違いして書かれたかもしれません。

    試製7.5糎戦車砲総合試験後の協定事項 昭和20年3月7日
    試製7.5糎戦車砲の経始は「チヌ車」(3/7.5糎戦車砲II型搭載用戦車)砲塔に適合する如く改修する予定に就き承知相成り度し、整備用図面は追って送付す。
    本砲の20年度整備11門は全てII型となる予定に就き承知相成度し。
    3月24日より「チリ車」(3/7.5糎戦車砲I型)の総合試験を富士演習場にて実施の予定に就き、23日、24日関係者派遣せられ度し、

    これが原文です。I型を改造しろとは書いていないのです。
    国本

  21. >>国本さん
    貴重な資料のご公開ありがとう御座います。

    >試製7.5糎戦車砲の経始は「チヌ車」(3/7.5糎戦車砲II型搭載用戦車)砲塔に適合する如く改修する予定に就き〜

    ご紹介の20/3/7付けの資料にもありますこの要求が、

    (ご存じの内容でありましょうが)20/3/20付けのII型砲の機能弾道性試験要報に於いても、

    「チヌ車搭載は概ね良好にして各操作問題なきもチト車砲塔を使用せずチヌ車砲塔に直接搭載する場合を考慮し砲架の各部寸法を変更するを要す」

    ...と、再度挙がっております。

    無論これはII型砲についての要求でありますが、前述の様にこの直後ただ唯一75o長砲を装載したチト車が事実上の死蔵状態に陥ってしまいます。

    上記チヌ砲塔への適合を実施するに際し、残る試製砲はI型1門のみ、勿論翌月からはII型の生産型砲が竣工致しますが、これはこの時点に於いてスタンダードなチト車分割鋳造式砲塔向け規格されたものでしょう。

    ご紹介の2資料にも、

    >本砲の20年度整備11門は全てII型となる予定に就き〜

    ...と、あります様に20/3/7の時点に於いてもチリ車の計画は雲行きが怪しく思われますが、

    何より、20/3に完成のチリ車唯一の試作車は以後終戦まで三菱を動かずにいたと思われる事、加えて20/3/31付けの20年度作業予定でもチリ車の作業予定が盛り込まれていない事、これらを考え合わせますにご紹介の資料にあります予定試験、

    >3月24日より「チリ車」(3/7.5糎戦車砲I型)の総合試験を富士演習場にて実施の予定に就き、23日、24日関係者派遣せられ度し〜

    ...は結局実施されなかったのではないでしょうか?
    (装砲したチリの射撃試験実施については全く伝わっておりませんし...)

    それは兎も角年末の特集号、非常に楽しみであります。
    落馬童子

  22. 失礼致しました、結びを付し忘れました。

    20/3/17〜19の試験結果に加えその後のチト2号の境遇(やむなく死蔵)、チリ車戦力化の放棄、この様な経緯を経て、I型としての存在に意味を失した残る1門の試製砲がチヌ砲塔への適合を受ける事になったのではないか、と言うのが私の状況解釈であります。
    落馬童子

  23. 一次資料には今の所、チリ車用の長7.5糎I型(製造番号は1号砲ちなみにII型になったのは2号砲)がII型に改造された形跡が無い。というのが私の感想です。
    佐山さんに確かめてみましょう。おぼえておられるでしょうか?出典を??
    国本

  24. >>国本さん
    >佐山さんに確かめてみましょう。

    とても興味を惹かれます、お手数ですがご報告を期待しております。
    落馬童子

  25. >>BUNさん

    ただ今読み返しを行いました際に「17」のポストでBUNさんへの敬称を欠いてしまっております事に気付きました。大変失礼を致しました、お詫び申し上げます。
    落馬童子

  26. SUDO様、落馬童子様、BUN師匠、国本大将、熱のこもったご回答ありがとうございました。
    Sampon

  27. 佐山さんにチリの戦車砲を改造した話は原文が何処にあるですのか?とお聞きした所、ハッキリ覚えていない。との事、
    勘違いされている可能性もありますねーーこれはーー
    と言うのも研究原簿にでさえチリ用の戦車砲の改造の話は出て来ないからです。
    国本


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