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一式四十七粍戦車砲II型について 落馬童子 |
- >>ゴドノフさん
>一式四十七粍戦車砲II型
以前ポストの有りました本砲についてようやく確認が取れました。
相模工廠の昭和20年度作業計画表中に以下様な記述が有ります。
九五式軽戦車 砲塔改修 又は 自走砲化 1/47TH(II型)装備
池貝
神鋼
この「1/47TH(II型)」とはまず間違いなく件の砲であると考えます。やはり試製駆
逐戦車「ホル」車の備砲と言う事に落ち着く様ですね。因みに「ホル」車の実車(試作車)は完成しておりまして(青沼真次郎氏資料、短四十七粍砲装備ハ号も同様)また本車の生産車らしき完成車も終戦時の工廠資料に確認出来ています。
>>はいどーもさん、SUDOさん
>#534−チト車のエンジン
「空冷ディーゼル・エンジン」の内容確認致しました。チト車用のエンジン、「AL」型についての詳しい解説、写真、図画が収録されており非常に素晴らしい内容でありましたが(著者の吉田毅氏は本エンジンの設計者)残念ながらサイズ/重量などの諸元は戦後のものしかフォローされておりませんでした。次は三菱の技報を調べる考えでありますがもし何か良い資料(ALエンジンの諸元を追える)が御座いましたならばご紹介戴けますでしょうか?
>>BUNさん
>三十連隊の装備
知人の協力で「集積兵器一覧表」昭和二〇年九月十五日現在 鋼・第一二九五〇部隊、を入手、内容を確認致しました。以前にチヘ車配備を否定される根拠として挙げていらっしゃった資料は本資料かと思いますが、この内容から伺えますのは四十七粍中戦車二個中隊及び本部その他諸任務車輌完全充足、砲戦車二個中隊及び随伴自走砲未充足と言った情報で、「チヘ」車なのか「チハ」車/47なのかは判別が出来ません。それとも別の資料なのでありましょうか?
落馬童子
- これは私の記憶違いでした。手元の資料を読みお直してみました。失礼致しました。
その後、戦車第五連隊関係の文書にに一式との記述を見つけ、心躍ったのですが、昭和十八年での記録であり、九七式47粍装備型が一式と呼ばれたことを再確認するのみでした。
BUN
- 前回の遣り取りが切っ掛けとなり件の三十連隊資料や未見の二十八連隊資料などを知人が探し出してくれまして、お蔭様でこれら資料の入手が叶いました。
処で、「五連隊には19年初頭の時点で既に各中隊に1輌づつのチヘ車が配備されていた」とする発言がつい最近にWeb上であった様ですが、該当時期には未だ生産1〜5号による運行試験の段階でありますし、また元五連隊所属の方による手記中にチヘ車への改編教育は終戦直前であった旨の内容が記されておりますから、この発言も同様に何かの錯誤なのでしょうね。
落馬童子
- 十八年十二月の動員状況報告に「主としてチハ車にして一式7両あり」と、、その後19年度中、まだ大陸にいる時期に12両を装備していると何度も出て来ます。チヘ車として誤って記憶され伝えられるのはまさにこういう車両なのではと思います。しかし、連隊の正規の報告に一式と出ていると、我々の呼ぶ九七式という呼称が逆に間違っているのではないかという気がして来ますね。
BUN
- >>チハ47粍型とチヘ車の混同
この件に関して私は一つの仮説を建てておりまして、僭越ながらその内容を述べさせて頂きたいと思います。また、以下の内容は私が出入りさせて戴いておりますサイトのマスター「むーさん」のご尽力に依る処誠に多大でありまして私一人が成し得たものでは御座いません。(但し内容の錯誤等の責任は全て私に帰すものです)
まず最初に厳然たる事実として挙げられますものは...
○ 「九七式中戦車改」と言う呼称は「日本の戦車」の著者であられるT氏の造語であり、戦時中には存在し得なかったものである。
(ご本人に確認)
○ 当時の一次資料中に使われる表記は「九七式中戦車」、「九七式」、「97式MTK」、「MTK」これらの後に「(47)」、「(47粍)」、「/47」等を付した書き表しである。
(米軍資料には「Shin-HoTo」や「Chin-HoTo」と言ったものも)
○ 元戦車連隊所属(車輌乗組)の方々は「装備は“チハ”と“47o”だった」や「“チハ”から“47o”に変った」と言ったご表現をなされる。
(複数の所属部隊の方々で確認)
...この様な内容です。これらから伺えます当時の状況は、
・四十七粍砲装備型を表わす決定的な制式名称が確認出来ない。
・書類上に於いても現場に於いても「備砲」の情報を直接取り上げている。
..と言う事になります。そこで私の建てました仮説は...
「チヘ車の配備時期として辻褄の合わない時点/状況の一次資料中に使われている「一式」と言う表記は決して錯誤などではなく、47o砲装備型の「チハ」車を指してその備砲である「一式四十七粍戦車砲」の「一式」と言う情報(制式名)を取り沙汰して現わしているのでは?」
...と、言うものであります。自説を押し通す考えは毛頭有りませんが、可能性の一つとして如何でありましょうか?
追記
前述のT氏との会見からやはり「チリ」車88o砲換装案は信用に値する根拠を何ら持ち得ない事を確認出来ました。
落馬童子
- 「主としてチハ車にして一式七両あり」といった文言は、同一文中前半で車名、後半で装備砲名を混合して呼んでいたということですか。
しかし、一式中戦車という呼称は制式なんでしょうか?九七式改はT氏の造語とのお話はMさんから聞きましたが、やはり88mm装備予定説も確たる根拠は無かったのですね。
BUN
- >>T−97/47
現場レベルに於いて47o砲装備のチハ車を呼び表わすに際し、その口径情報を半ば車名化する形で、只単に“47o”と呼称していた事と同様、紙面(書類)上に表記する上で他に簡易な呼称を持たない一式四十七粍戦車砲装備型チハ車を“一式(砲装備のチハ)”と通称記述していたのではないでしょうか?
「主としてチハ車にして一式七両あり」=「主としてチハ車にして一式(戦車砲型チハ車)七両あり」
つまりはこの様な意味合いなのではないかと思います。
>>「一式中戦車」と言う制式名
終戦時の資料に於いても「チリ」車が「試製中戦車・乙」、「ホニ」車III型が「砲戦車(甲)」のままである事や、軽戦車の秘匿名が一次資料上でも食い違いが見られる事などから、この辺りの確認をT氏にお訊ねしました処、「日本の戦車」上での記載は四研資料「機甲兵器諸元表」(戦中の編纂)に準拠したものだそうで、生産車の配備状況や試作車完成時期の矛盾など「チヘ」車には多くの謎が残っておりますが少なくとも「一式」の制式が冠されていた事は間違いない様です。
>>「チリ」車88o砲換装説
T氏によりますと戦後旧軍機甲関係者の誰からもこの様な計画の話は聞いた事が無く、また何より計画の大元たる備砲開発(九九式八糎の車載化)に関する痕跡も一切認められないそうです。にも拘わらず進駐軍作成のレポート上に唐突に記述が出現しておりまして、つまりはこれがすべての現況と言う事になります。
以下、重ねての仮説で恐縮でありますが思いますに、捕獲した本車の実車が未砲装の状態であった事から、半自動装填装置の詳細を正確には把握出来ていなかった進駐軍調査官が、75o砲を実装した「チト」車と比べあまりに巨大なその砲塔容積に鑑み、旧軍が独系の88o砲を制式化していた事実と結び付け、その完成像を手前勝手に推し量った結果、件の内容をレポート上に記すに至った、この様な経緯であったのではないでしょうか?
落馬童子
- >落馬童子様 おひさしぶりです。晩夏より体調不良につき長期入院しておりました。
47粍砲II型の情報ありがとうございました。試製駆逐戦車のことはよくわかりませんが
備砲は従来型の47粍砲と同じと考えておりましたのでまたまた驚きです。
II型と短47粍砲とはまた別ものということですね。
>落馬童子様 BUN様
一式戦車の名称ですが、いつもながらお二人の詳細なご説明に驚嘆しております。
以前このボードで素人ながら私も仮説(?)を書かせていただきましたが、一式戦車という
固有名詞はその形式の砲塔を搭載したものをこう呼んでたのではないかと思ってました。
(もちろん一式中戦車という制式名称は別にありながら矛盾するのですが…。名称の重複は
戦地と工場或いは紙の上ではあり得たのかも知れません。)
*九七式中戦車改は一式戦車砲塔搭載チハ車といったほうがあってるかもしれませんね。
ゴドノフ
- >>ゴドノフさん
>一式四十七粍戦車砲II型
前回のポストがなければ相模の記述を見ても正体が判らずに頭を抱えていた処です。ご情報ありがとう御座いました。
>>BUNさん
>しかし、一式中戦車という呼称は制式なんでしょうか?
これは「チヘ」車に関しての問題で宜しいのでしょうか?
であれば前述の通り正式な呼称であると考えます。複数の一次資料にて確認致しましたがやはり「一式中戦車」と言う記述の登場(チヘ車としての)は少ないものではありませんでした。
一方、「九七式中戦車/47粍」についてでありますとこれにたいして「一式中戦車」などと言う制式名が与えられていたとは私には思えません。(当事者の錯誤でない限り)
ただ、「一式」と言う便宜上の用語についてでありますとまた別の状況であったのではないかと考えます。確かにこれも「正式な」呼称とは言い難いのでありましょうが、この車輌(47o装備型チハ)を表わす上で他に正式且つ一般的な呼称が存在しなかったと思われます以上、部隊の正規書類にも隊内で通用している用語(「一式」=一式戦車砲装備型チハ車)を機材名として記述していたのではないでしょうか?
(ご紹介の五連隊資料でも「一式中戦車」ではなく「一式」となっていますのだと思いますが...。 その他「チヘ」車装備の部隊以外の書類上に「一式中戦車」と有るのであれば、それはもう便宜上の用語「一式」の使用が引き起こした混乱/錯誤であるとしか私には思えません)
落馬童子
- あくまでも仮に一式戦車として呼ばれていた可能性は十分にある、との印象を述べました。
陸軍の兵器呼称については残されている史料があまりにも少なく、戦時中の状況が把握しにくいのですが、一方海軍の兵器についてはその制式制定時と試製時の呼称が大体把握できます。たとえばある新兵器について当初一式と呼んでいたが、その後制式兵器に採用された際には五式となるなどの例がありますので「砲の年式で呼んだ」との説は少し苦しいような気もしなくもありません。私は新砲塔搭載時にはそれが通称であれ制式であれ呼称の変更があった方がむしろ自然ではないかと考えております。
BUN