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下記の空母の実搭載機数と機種内訳を教えてください。 1.フィリピン作戦時の「龍驤」 2.珊瑚海戦時の「祥鳳」 3.MI作戦時の「隼鷹」、「龍驤」、「瑞鳳」、「鳳翔」 4.第二次ソロモン作戦時の「龍驤」 5.南太平洋海戦時の「瑞鳳」 剣高 |
- 質問は、どんな目的で調べている。茲まで分ったがこれから先が分らない。
だからご助言願いたい。このようにあって欲しいですね。自分は努力せず
他人任せは頂けません。
海鳥
- ご質問の5例に限らず、いつの作戦時に、何機積んでいたというはっきりしたデータは意外にないものです。戦闘詳報に記述されている場合もありますが、例は少ないと思います。
そこで、作戦直前の搭載機定数と、戦闘詳報や飛行機隊戦闘行動調書による発進機数から、「○○機〜××機の間」と幅をもたせて推定するよりほかないでしょう。
たとえば、1のフィリピン作戦時の「龍驤」の場合だと、16年12月1日現在の搭載機定数は艦戦×16、艦攻×18です。機種は艦戦は九六式艦戦、艦攻は九七式艦攻(飛行機隊戦闘行動調書に九六式と記載されているものもあるそうですが、たぶん誤記だそうです。)。
そして、12月8日のダバオ飛行場攻撃に飛んだ飛行機が、一次fc×9、fo×13、二次fc×3、fo×2となってます。ただし、二次のうちfc×1、fo×2は搭乗員の名前から判断して、一次から帰ったものと推定できますから、合計でfc×11、fo×13は確実に搭載されていたことになります。
あとは、艦戦の場合は上空直衛、艦攻の場合は索敵・哨戒に飛んだ機数が加わり、さらに予備機がどれだけあったかの推定になります。「龍驤」の戦闘詳報は見たことがありませんが、確か12月8日の飛行機隊戦闘行動調書に、上空直衛、索敵、前路哨戒等の記録もなかったと記憶するので、やむなくH16.12〜H17.4の飛行機隊戦闘行動調書から、12月8日の攻撃に飛んでない搭乗員氏名を拾うと、艦戦で5名、艦攻で3組(ただし偵察員2名)ということで、fc×約5、fo×約3程度は、12月8日の攻撃隊以外に積んでいたのではないかと推定します。
したがって、fcは11+約5で約16、foは13+約3で約16、するとfoは定数より2機程度少ないということになりますが、まあ、この程度の誤差はやむを得ないところでしょうか。
ということで、2〜5もそうやって推定してみてください。
土屋二飛曹
- >2.
空母にも控えの搭乗員が乗っていたと思いますので、単純にペアの名前があるのでそのペア分、機数をプラスというのは危険じゃないかと愚考いたします。
源五郎
- ご指摘御尤もで、「幅」を省略してしまいましたので、ここに挙げた数字はMAXに近い方だと思います。でも、まあ、上に挙げた「龍驤」の例では、「控えの搭乗員」の中には海兵66期や乙飛4期の分隊士も含まれていますので、控え搭乗員と見るか、別の要因で先の攻撃に出なかっただけかは、顔ぶれを見ながら、ケースバイケースで判断すべきでしょうね。
蛇足ですが、小型空母の場合は、大型空母に比べると控え搭乗員が少ないのも確かです。ちなみに、MI作戦時の「鳳翔」の搭載機数は九六式艦攻6機といわれていますが、同作戦中の戦闘行動調書では8ペア分の氏名が確認できます。
土屋二飛曹
- 光人社 「写真日本の軍艦3−4」の文書や写真キャプションでは、
1.開戦時
龍驤:九六艦戦18機、九七艦攻12機
瑞鳳:九六艦戦16機、九七艦攻12機
2.珊瑚海
祥鳳:零戦6機、九六艦戦10機、九七艦攻12機
3.MI時、
鳳翔:九六艦攻6機
隼鷹:零戦20機 九九艦爆19機
龍驤:零戦を搭載
瑞鳳:記述無し
4.第二次ソロモン作戦時
龍驤:零戦24機、九七艦攻9機
5.MI以降
瑞鳳:零戦21機、九七艦攻6機 となっています。
しかしサンケイ出版の「艦攻と艦爆」では開戦時には、
龍驤:九六艦戦22機、九七艦攻18機
瑞鳳:九六艦戦16機、九七艦攻12機
鳳翔:九六艦戦11機、九六艦攻8機
またサンケイ出版の「ミッドウェー」では参加兵力として
龍驤:戦闘機16機、雷撃機21機(零戦と九七艦攻?)
隼鷹:戦闘機24機 爆撃機21機(零戦と九九艦爆?)
瑞鳳:戦闘機12機、雷撃機12機
鳳翔:爆撃機8機(九六艦攻?) となっています。
Cabin
- 取りあえず、気が付いたことだけ。
1.について
海戦直前の「龍驤」飛行甲板上での艦戦隊員の集合写真を見ると、士官(飛行隊長)1名、准士官(分隊士)2名、下士官9名、兵2名、計14名が写っています。全員でない可能性もありますが、参考までに。
2.について
アテネの戦闘詳報シリーズに「祥鳳」の戦闘詳報が載っています。これの17年5月7日(つまり珊瑚海海戦)の分の所見に、
「本艦作戦任務ニ鑑ミ主トシテ戦闘機十三内零戦七、九六戦五)(引用者註:計算が合いませんが)ヲ以テ専ラ攻略部隊上空直衛ニ當リ艦上攻撃機一〇ヲ以テ對潜直衛並ニ戦闘機隊ノ誘導ニ任ズルト共ニ・・・」
という記述があります。
ちなみに、17年2〜4月の飛行機隊戦闘行動調書から搭乗員を拾うと、艦戦、艦攻とも13組が確認できますが、珊瑚海海戦時にこれだけ乗ってたわけではありません。これも参考までに。
土屋二飛曹
- さらに、
4.について
戦史叢書には、8月23日(つまり第二次ソロモン海戦の前日)現在の搭載数として、零戦24、艦攻9とし、記事欄に「予定数(引用者註:定数の意味か)どおり」と記載されています。
一方、同じ戦史叢書から、「大東亜戦争戦訓(航空)第八篇第二次ソロモン海戦之部」の引用として、ガダルカナル島攻撃に零戦15(引用者註:攻撃隊6、遊撃隊9)、艦攻6、上空直衛に零戦7、つまり、零戦22、艦攻6が「龍驤」から発進しています。先の搭載機数が正しいとするなら、零戦2、艦攻3は「龍驤」とともに沈んだのでしょうか。
5.について
南太平洋海戦での「瑞鳳」は、索敵に艦攻5、一航戦第一次攻撃隊の制空隊に零戦9、上空直衛に零戦8、敵機動部隊触接に艦攻1、計零戦17、艦攻6を発進させています。
ちなみに、海戦直前の飛行甲板上での艦戦隊員の集合写真には、士官3名(飛行長含まず)、准士官2名を含む搭乗員22名が写ってます。
土屋二飛曹
- 五月雨の回答で申し訳ありません。
3.の「瑞鳳」について
桂理平氏(海兵72期)の「空母瑞鳳の生涯」(霞出版社)60頁によると、「瑞鳳」の搭載機は、零戦6、九六艦戦6、九七艦攻9だそうで、零戦6の搭載は日高分隊長の回想に基づくもののようで、出撃前に中島飛行機から領収したらしい。
3.の「隼鷹」、「龍驤」について
木俣滋郎氏の「日本空母戦史」(図書出版社)247頁によると、AL作戦時の「龍驤」は、零戦12(定数16)、九七艦攻18(定数21)、「隼鷹」は、零戦18(別に六空の零戦12)、九九艦爆18を搭載したとしています。
いずれも定数とは異なる数字であり、それっぽい感じもしますが、果たして出典は?。
六空の搭乗員4名は制空に、上空哨戒にと飛んでいますが、使用機はミッドウェー進駐用の自隊のものを使用したのか、「隼鷹」のものを使用したのか、興味の湧くところです。
5.について
南太平洋海戦時の「瑞鳳」の艦攻搭載数は、当時の分隊長である田中一郎さん(海兵67期)自身が6機と回想されていることから、間違いないと思いますが、「瑞鳳」艦攻隊の集合写真(撮影時期は17年9月ごろとされている)を見ると29名(単純に3で割ると9ペア+2名)います。
このことから、原則として搭乗員は搭載機定数分は乗っているものだ、とは言えないでしょうか。
土屋二飛曹
- ご回答とアドバイスありがとうございます。
充足の度合いはどんなもんなのかなぁという動機の質問でした。
私自身一次資料などに触れる機会があまりなく、しかもあまり注目
されないのか、書籍などでの記述も少ない軽空母の活躍ですが、なかなか
搭載機数を特定することは難しいようですね。
空母瑞鶴の生涯(豊田穣著)でハワイ攻撃から帰ってきた指揮官に
第二撃に連れて行く約束だったと艦爆の2ペアが食い下がるシーンが
あったのですが、機体と人員どちらが不足していたのか気になります。
特に軽空母はハード的な制約や任務によって増減が激しそうですし…
できれば更にお話をお願いします。
剣高
- >9
> 空母瑞鶴の生涯(豊田穣著)でハワイ攻撃から帰ってきた指揮官に
>第二撃に連れて行く約束だったと艦爆の2ペアが食い下がるシーンが
>あったのですが
あの場面は堀建二さんの回想が元になっていると思いますが、真珠湾の瑞鶴艦爆隊の編成にはとにかく判らないことが多いです。いろんな資料に掲載されている編成は、堀さんのメモを復元したもので、21機の編成に4機の予備とされていますが、実際には25機が出撃しているようです。豊田さんの作品の中で食い下がっていた2名も、予備の4機の中に入っていますので、現実はたぶん出撃していると思うのですが。
>機体と人員どちらが不足していたのか気になります。
答えは一つではないでしょう。まず、大きな作戦の前には花形部隊が機体と人員をかき集めていきます。
たとえば、17年8月の1航戦(「瑞鳳」欠)と「龍驤」の出撃時には、「隼鷹」、「瑞鳳」の着艦経験者をかき集めています。「隼鷹」飛行隊長の志賀淑雄氏の回想でも、8月初めに「瑞鶴」の白根大尉が「戦闘機をくれ」と頼みに来たので「一番いいのから6機そろえろ」と部下に命じたそうです。
「龍驤」艦攻隊にしても、開戦直前の16年11月に「赤城」臨時乗組みを命じられ(「真珠湾攻撃隊」M・A社P117キャプション)、真珠湾攻撃のために引き抜かれており、従って、開戦時には16年9月に飛練9期を卒業した甲飛4期生が少なくとも10名、翌月に飛練10期を卒業した乙飛9期生の名前が2名が見られるほか、12月8日の第一次攻撃隊の艦攻13機のうち4機が2名搭乗(通常は3名)となっています。また、艦戦隊は16年11月に三空から搭乗員の補充を数名受けています。
このほか、5航戦の新設に際して、「瑞鳳」、「春日丸」の搭載機が空になったことも周知の事実です。
従って、機体も人員もいずれも不足がちな中で、飛行隊幹部が苦労してやり繰りしていたというのが答えではないでしょうか。
>特に軽空母はハード的な制約や任務によって増減が激しそうですし
上でも述べましたように、ハード的な制約や任務よりも、むしろほかとの関係が最大の要因ではないでしょうか。
特に、「祥鳳」や「隼鷹」など海戦後に竣工した空母は、最初の飛行機隊編成には非常に苦労したそうで、「隼鷹」なんか飛行機工場へ飛行場を受け入れに行っても、「隼鷹なんて名前の軍艦は聞いたことがない」と監督官から冷たくあしらわれたと聞いたことがあります。
ところで、剣高さんのハンドル・ネームは「剣」埼、「高」崎からきているのでしょうか。となると、アイデンティティは軽空母というわけですね。
土屋二飛曹
- アイデンティティーというほどでなく、今ちょっと
気になること、が軽空母の運用でして・・・
土屋二飛曹さんのおっしゃるように軽空母の搭載機は
”割を食う”ことがおおいでしょうね。
そのなかで、戦訓を受けてなるべく軽空母を主力空母に
随伴させて、索敵・哨戒・直衛の雑用(?)に使うべきだ
という方向で機数増加傾向(特にMI以降)となっているような
気がします。
洋上で発着個所を増やすという観点ですね。
また、珊瑚海へ行ったのが瑞鳳でなく祥鳳であったこと、
MI作戦時に鳳翔・瑞鳳はどのような任務を期待されていたのか
などもこれから考えてみたいと思います。
飛行隊幹部が飛行機を集めるというのはどうも
解せないですね。
隼鷹就役後に阿部大尉が18機の艦爆隊を1ヶ月で
錬成するのに苦労した話は聞きましたが、実施部隊の
幹部同士で飛行機を融通するというのは・・・
第一航空艦隊が戦闘機を借りてハワイに行ったまま
最後はすりつぶした話は聞きますが、これも源田参謀
ぐらいのレベルで話を付けていたのでしょうか。
もっと高レベルで割り振りを決めているのでは
ないかとおもうのですが。
それとも大筋の話が付いていて、選抜者レベルで
遊んでいる(?)部隊から誰くれ彼くれといった話しに
なるのかも知れませんが。
追伸
議論ボードの方では機動部隊防空に関する高尚な討論があって、
私は端から見ているだけなんですが、日本側にできる一番効果的な
防空というのは、実は囮部隊(できれば軽空母)を前進させて
敵の空襲を吸収させるというネガティブな方法のような気が
してきました。
結果論を含むとしても成功しているケースは多いですね。
剣高