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子供の頃読んだ本に、『空母天城の艦底の二重底部分は青函連絡船の浮き桟橋として戦後使われた。』ってなことが書かれていましたが、それは青森と函館のどちら側で、いつごろまで使われたのでしょうか? 加藤飛曹長 |
- http://www.tetsusenkai.net/official/syouwa/200815/yukikaze/kuubo/
Googleで調べたら出てきました。
どちら側ともいつまで使われたとも書いてませんが…
私は実家が函館で連絡船も小さい頃はよく乗ってたので気になります。
函館側は、今摩周丸が展示されている函館駅の桟橋の他、別の場所に有川桟橋と言うのもあります。
これは五稜郭駅から海側に向かってのびていて、主に貨物用に使用してたようです。現在もコンテナのターミナルとして使われてます。
実家は、まさにこの引き込み線の側なので、今度帰ったときにでも確認してみたいですね。
答えになってなくてスミマセン。
まろ
- http://station.catorea.ne.jp/modelers/JNR/seikan/history_2.htm
函館にて、未使用廃棄されてます。
すすむ
- 皆様ご教示ありがとうございます。修理用のポンツーンとして回航されながらも、使われずに廃棄されたのですね。何か使い勝手の悪いところ、もしくは強度的な欠陥とかがあったのでしょうかねぇ。
加藤飛曹長
- 確かもっと詳しい資料があったはずだが、さてどの本のどこだったか。。。
戦後、青函航路に就航していたのは主にW型の戦時標準船で、各航路からかき集めた鉄道連絡船と共に酷使が祟って頻繁な修理を必要としていました。函館造船所(現函館どっく)も戦災によって機能を低下させており、専用の修理施設を作るべし、との構想の下にポンツーンの設置が計画されました。
このポンツーンが空母天城で、ほかに駆逐艦1隻を防波堤として用いる計画もあったようです。長さ120m、幅14mのポンツーンは日本海回りで60余日をかけて回航されたものの、現地ではすでに修理は専門の施設に任せるべき、との意見が多数を占めていたとのことで、計画倒れの感が否めません。
昭和23年8月、ポンツーンは函館有川岸壁に設置され、1年後の24年8月に廃止されると屑鉄として売却されました。海上倉庫、貯油タンク等への改装案もあったようですが、その巨大さと費用の点から借り手も買い手もつかなかったようです。
なお、実際に修理工事で使用されたかどうかは調査不足で不明です。
天翔
- 天翔さま
詳細なご説明、どうもありがとうございます。これで長年の謎の一端が解けました。
加藤飛曹長