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こんにちは、いつも勉強させていただいております。 素人質問ですが、よろしくお願いします。 大和型は、信濃を含めて3隻建造されています、その建造港ですが、 3隻とも、ばらばらです、武蔵など、進水のときかなり無理をしたと聞いたことがあります。 なぜ、大和建造の経験や実績のある呉で建造しなかったのでしょうか。 武蔵のように無理してまでよそで作るのか? 建造計画などでドックを空けることもできたと思うのですが 教えてください やまべー |
- 苦労したのは三菱長崎の武蔵だけではありません。呉の大和は建造船渠の都合(深さが足りない)で舷側装甲鈑を付けずに進水しました(一応、建造に先立って船渠は掘りなおしてるんですが)
またこの時点で、完成した大和型が普通に入渠できるドックは呉第四船渠ぐらいだったと記憶してます。ここでも建造を行えなくは無いのですが、そうなると、就役した大和型の整備を行えるドックがなくなります。
この為、横須賀に新たに第六船渠が昭和十二年に起工し、ここで信濃の建造が行われる事になったのです(第六船渠は建造と修理双方に対応可能)
つまりは、大和型起工時に、無理なく大和型が入れるドックは呉第四の一箇所、無理をすれば作れるドックは、呉と三菱長崎に一つずつ。完成後の修理・整備を考えると呉第四は塞げませんので、武蔵を大和とほぼ同時に建造する場合は、他に選択の余地が無かったというのが実情ではないでしょうか。
SUDO
- 明治政府は日露戦争後主力艦4隻の同時建造を目指し、呉、横須賀の両工廠と民間の三菱長崎、川崎神戸をその候補としました。民間の両造船所には技術、資金面で膨大な助成を行い、能力の引き上げを図りました。そして比叡型巡戦の建造から、その体制が実現しました。比叡(横)、霧島(長)、榛名(神)扶桑(呉)です。この体制が無ければ八八艦隊は不可能でしたし、現実そのように建造の配分がなされています。ワシントン体制下の重巡もしかりです。
マル3計画の実施にあたっても、これは当然考慮されています。
1号艦(大和:呉)2号艦(武蔵:長)、3号艦(翔鶴:横)、4号艦(瑞鶴:神)です。呉の大和は当然として、空母の建造に長けた(蒼龍の艤装、飛龍の建造)横須賀が翔鶴、機密保持に難のある川崎が瑞鶴ということで、長崎が武蔵の担当になったと聞いています。(他にも理由はありますが)
マル4では、そのために作った6号ドックの横須賀で110号(信濃)、大和
に引き続き呉で111号、川崎神戸は空母大鳳となりました。
しかし、おっしゃるように、武蔵の建造は船台での限界だったようで、以後マル5計画の戦艦は横須賀と呉、それに新設工廠(大神?)でのドック建造が予定されていたようです。こうなると整備用のドック不足も明白で泉州あたりに建造を計画していたようです。(名乗りはこれにしました)
油布巾
- 返答有難うございます。
完成後の修理・整備のことを考えていませんでした
解りやすいご回答本当にありがとうございました
やまべー