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誠に、すみませんが、アメリカ海軍潜水艦による撃沈船舶を確認できるサイト、若しくは、本の名前を教えて頂けないでしょうか。昭和17年5月25日に沈没した海軍の御用船「彰化丸」の沈没理由について調べているのですが、当時の海軍の発表では、敵潜水艦の雷撃により撃沈された、と発表されているのですが、出来るなら、連合軍側の資料で確認したいので、お願いいたします。 歴史好き |
- 彰化丸はアメリカ潜水艦(SS199)タウトグTautogの雷撃を受けて沈没しております。
残念ながら、アメリカ潜水艦により沈没した日本艦船に関して整備された資料と言うのは少ないので、「Shoka Maru」をGoogleで検索してみるほうが早いと思います。
http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&oe=UTF-8&q=Shoka+Maru
ただ、出てくる内容はほとんど同じなので、ソースは限られているようです。
http://www.hazegray.org/danfs/submar/ss199.htmやhttp://www.ibiblio.org/hyperwar/USN/USN-Chron/USN-Chron-1942.htmlあたりが確認資料としてはよいのではと思われます。
hush
- 早々のご返事有難う御座います。この彰化丸には、祖父が乗船していました。私は、この当時の米国潜水艦が、魚雷の欠陥により、輸送船を撃沈できたか疑問に思っていました。もしかしたら、機雷に触雷したのではないかと予想していました。
これで、叔父に、祖父の戦闘状況を教えてあげられます。hush様、有難う御座います。
歴史好き
- 彰化丸(大阪商船貨物船)
1942年5月22日1700空船でラバウル出港後門司へ航行中、24日0900赤道通過直後に船団を解いて単独航行に移行。25日1835頃、メレヨン島南方350km(04゚05′N/144゚11′E)で左舷前部に被雷し左舷に傾斜し船首が沈下したことにより退去。1840船尾を約70度に屹立させた状態で沈没。船室に閉じこもった吉川雄三船長と船員1名を除く船員63名は救命艇に移乗し沈没後16日目の6月9日帆走によりフラリス島(07゚20′N/143゚50′E)に到達。4467T
Theodore Roscoe著United Submarine Operations in World War IIによればTautog艦長はJ.H.Willingham、雷撃位置は04゚07′N/143゚32′E。
参考文献等
駒宮真七郎著「太平洋戦争被雷艦船史」(1997自費出版)→当初の御質問の主旨でいけば、この本が御希望に一番近いです。
駒宮真七郎著「戦時船舶史」(1991自費出版)
彰化丸(http://www.aa.cyberhome.ne.jp/~museum/19420525syouka/syouka.htm)
御祖父様の御冥福をお祈りいたします。
hush
- リンク先訂正http://www.aa.cyberhome.ne.jp/~museum/19420525syouka/syouka.htm
hush
- 御免なさい。お亡くなりになっているとは書かれてありませんでしたね。早とちりにしても、ひどい間違いです。本当に申し訳ないことを書いてしまいました。お許し下さい。
hush
- いえいえ、hush様、私の祖父は、この時死亡した、吉川雄三です。長男である叔父も80となり、祖父の名前の残った記事を見て、喜んでいます。ご丁寧な、ご返事、有難う御座います
歴史好き
- 大阪商船の船舶でしたら、野間恒氏編著の「商船が語る太平洋戦争−商船三井
戦時船舶史−」(リンク先のサイトにも参考文献としてありますが)にも掲載さ
れているかと思われます、それなりの値段ではありますがまだ入手可能だったか
と思います。
ooi
- 御祖父様が船長をお務めになられておられましたか。被雷後僅か5分間で沈没した同船上で何を思われ、何を考えられたかは想像するに余りあります。ただ、遺された方々の心中を思うと慙愧の念にたえません。
早とちりのお詫び方々、http://hush.gooside.com/Text/2S/22Shi/S227a2Shiyouka_.htmlに彰化丸の項目を入れさしていただきました。若干、情報を追加させていただきましたので、御高覧いただければ幸甚に存じます。
なお、雑誌「世界の艦船」1999年4月号(通巻550号)138ページに姉妹船台東丸の写真が掲載されております。日本商船界の泰斗、和辻春樹博士が基本設計に加わったと言うだけあって、その流麗かつ軽快な船型は一見の価値があろうかと思います。
また、3に書きましたメレヨン島は、グアム、ニュー・ギニア、パラオ、トラック環礁の中間に位置するミクロネシア連邦カロリン諸島に属する島で、現在はウォーレアイ島と呼ばれているようです。フラリス島はその60km東方に位置するということ以外は分かりませんでした。
hush
- >7. p22〜に3ページにわたりあります。 戦没者名も載せられております。 吉川雄三船長(47) 石川県とあります。
入手先こちら ¥6,300
http://www.ships-net.co.jp/detl/200212/tori.htm
少なくともTautogの魚雷一本は不発であったようです。昭和18年の中ごろまで米魚雷は起爆尖の欠陥で、正面からの撃発では不発または早発、浅い角度での命中でのみ爆発したそうです。以下同書引用。
”18:33 船首付近に軽いショックを受ける。三番艙左舷側の海面に一本の雷跡らしいものを発見、直ちに右舷90度に回頭を開始した途端の18:35、左舷前部で大爆音がして異常な衝撃がブリッジに伝わる。船は左舷に急傾斜、船首から沈みはじめたので船長吉川雄三は汽笛吹鳴で全員呼集、退船命令を出す。敵潜情報を打電しようとしたが、雷撃の衝撃でアンテナ落下、発電機配電盤の故障で電力も停止して[送信]不能。吉川は無線局長に「間もなく沈むぞ」と言いながら手をとって引き出し、救命艇に向かい局長の背中をポンと押すと、独り自室に姿を消した。 ”
私は戦没海員の事を思う時、なぜ船を降りなかったのか聞きたい気持ちを押さえられません。陸に残って生き残る事を考えなかったところに海人の矜持(死語に近い)を感じるものです。
IWA
- 彰化丸の写真みつけました。
http://www.takedive.net/sbs/Senbotsu5FILE/86syouka.html
IWA
- hush様、IWA様,ooi様、貴重な資料の提示をして頂き有難う御座いました。私は、戦後生まれで、祖父の事はよく知りません。ただ、遺品の皮コート(防寒用)
は、大きく(身長180センチはあったそうです)頑丈です。叔父は、大阪商船
の事や、彰化丸が海軍の御用船に徴用されることが決まったとき、祖父は「だちゃかんな。」と生き残れないだろうと漏らしていたことを、私に教えました、大阪商船の同期の船長で、生き残った人はほとんどおらず、海軍に復帰した人が2,3人
生き残ったそうでした。叔父から敵潜水艦の雷撃で撃沈したと聞いていましたが、
当時の米海軍用魚雷の欠陥を知り、もしや触雷ではと思い、ここに書き込ませて頂きました。祖父は、当時の海事法に定める、船長の義務以上の事を行ったと思います。早速、お教え頂いた本を購入し、叔父に送りたいと思います、皆様有難う御座います。
歴史好き