2286 |
初めてこのサイトを知りました 全て重複か知りませんが、2・3心に残る質問をお許し下さい 空母「信濃」ですが、写真が全くない。と有りますが、本当ですか? 戦後50年以上経過して居ので、どこかで出てきても不思議でないと思いますが? 又、沈没位置の正確な緯度経度は判っているのですか? 何かの本で「回航中に儀装作業を行っていたため、ハッチが全て開いていた」ともありました。 生存者はいたのでしょうか? まんぼう0146 |
- 信濃の写真としては右舷側から撮ったものが存在しており、様々な本に載っていますが…。
なお、信濃の沈没位置は潮岬沖(熊野灘)111度、55海里の地点だそうで、正確な意図軽度は判りませでしたが、アーチャーフィッシュが信濃を雷撃したのが北緯32度、東経137度、信濃が被雷したのは潮岬沖(熊野灘)東南約80海里の地点だそうです。
なお信濃の乗員およそ1600名中、約半数の約800名が戦死されたそうです。
T216
- 1.でもお答えになっているように、公試中のものと伝えられる左回頭中の信濃を右舷から撮影した写真は有名で、信濃を扱った本にはほとんど掲載されていると思います。その他、B29からの偵察写真(航空写真)として、横須賀第6ドック入渠中のものと、東京湾内に停泊中のものが残されているそうですが、艦のディティールを判別できるほどの写真ではなく、空撮した写真の中にたまたま写り込んでいた、という程度のものであるようです。
なお、信濃の沈没位置については、1.で回答されている内容以上のものはわかりません。信濃の沈没に関しては、沈没後S事件調査委員会として沈没原因の調査等が行われており、その委員会報告書には正確な沈没位置が記載されていたのではないかと思われるのですが、5部作られたと言われる報告書は、全て終戦時に処分されたようで、現在のところ1部も発見されていないそうです。
回航中に艤装工事、というのは本当で、多数の工員を乗せたまま、回航中も残工事を続行中だったと言われています。従って、作業機械の電源やガスのケーブルやホースなどを通すため、また工員の行き来のために、全てとは言えませんが防水扉やハッチが開放されていたのは事実のようです。
つね
- 大鳳・信濃の資料に関しては福井静夫氏が終戦後横須賀工廠の図庫に行ったときには、
無くなっていたそうです。
またB-29による偵察写真は横須賀上空から撮影した一葉があります。
絵画では昭和27年に福井静夫氏が描いた物が最も正確だとされているそうです。
たかやま
- 諸氏からの回答有難うございました。 この質問サイトを001から読みますと、この手の質問が何件か有りました。 気になるのは私だけで無かった様です。 ところでwebで写真が出ていれば教えて下さい
まんぼう0146
- > webで写真が出ていれば教えて下さい
http://www.c-able.ne.jp/~tseiso/sensou/3baka.html
というか、Googleなどで「信濃」「空母」「写真」で検索するとこれくらいすぐに引っかかりますし、1.でも書いたように市販の本がたくさんあります(学研の歴史群像シリーズ「大鳳・信濃」なんかがよいかと思います)。
ある程度は自分で調べるようにしないと、そのうち誰も答えてくれなくなりますよ。
T216