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海軍艦艇の命名基準は明治38(1905)年4月23日、海軍大臣山本権兵衛が明治天皇に内意を伺い、同年8月1日に決定しています。誰でも知っているように、戦艦の名前は旧国名をつけることになった訳ですが、国名を選択する際に何かの基準のようなものがあったのでしょうか。国と言っても、親王任国、大国、上国、中国、下国とランクがあったのですが、大国から順に選ばれている訳でもないようです。(大国:大和・河内・伊勢・武蔵・陸奥、上国:山城・摂津・尾張・相模・加賀・安芸・周防・紀伊・肥前、中国:丹後・石見・長門・土佐・日向・薩摩、下国:壱岐) 実際に、戦艦に国名がついたのは日露戦争戦利戦艦の石見、相模、周防、肥前、丹後および壱岐ですが、石見(オリヨール)は島根県沖で捕獲されたためだそうです。他はちょっと分かりませんでした。 国産の最初の戦艦である薩摩は海軍に旧薩摩藩出身者が多いからと言うような気がしますが、同型艦の安芸は理由が思い当たりません。旧官軍の主力だった、薩長土肥はいずれも戦艦の名前となっています。伊勢と日向がいずれも天皇家に関係がありそうとか、無理矢理こじつけることはできるのですが。 また、大和と武蔵はどちらも2代目(先代は測量艦)ですが、国名が多く余っているにも関わらず、再使用しているのも不思議です。 どなたか、この辺りのことをご存じないでしょうか。 富士見町 |
- 片桐大自氏の書かれた「連合艦隊軍艦銘銘伝」によれば、次のとおりです。
「大和」:現在の奈良県である。「大和朝廷」の名に知られるとおり、古代の天皇は歴代、この地に都を置いた。こうしてその名は日本全体の国名となったのである。
「武蔵」:現在の東京都と埼玉県全域と神奈川県東部を含み、東国武士発祥の地の一つである。・・・(中略)・・・江戸は首都東京となり、山城に代わる帝都の地となったのである。
さらに、「武蔵の名は帝国海軍の最高峰に位置する新戦艦のために、大和と並んで日本を代表しうるものとして選ばれたに相違ない」と書かれています。
ポイントは、両方とも日本の都が置かれた国名だということです。
長く都が置かれた京都は「山城」に属しますが、これはまだ現役艦です。
そこで、古代の都の地であり、日本全体の象徴的な国名である「大和」と、現帝都の地「武蔵」が選ばれた、と考えるのが自然では?
「山城」「扶桑」の場合も、「山城」は京都の属する国、「扶桑」は日本全体の美称です。そして、両艦は日本海軍が初めて完成させた3万トンを超える超ド級戦艦
で、海軍はもとより国民の期待と感激は相当なものだったということです。
この間に入る「伊勢」「日向」は「扶桑」級の準同型、「長門」「陸奥」は、結果として日本海軍の象徴として長く親しまれることになりましたが、建造時には、より強力な八八艦隊計画各艦が、すぐ後に続くことが計画されていたため、扶桑級や大和級のような特別視はされなかったのではないでしょうか?
つね
- 相模、肥前、丹後は横須賀、佐世保、舞鶴軍港の所在地。本来なら呉のある安芸も選ばれるはずでしたが、すでに命名されていたので隣国の周防が選ばれました(当初は四国の国名が予定されておりました)。壱岐は石見と同様捕獲地から(同様の例として沖ノ島)。長門と陸奥は本州の両端(加賀と土佐は南北の両端に近いことから)。伊勢と日向は御推察の通り。大和と武蔵の再使用については、先代が除籍されたため、使用可能になったことにより、現在と過去の首都所在地をつけました。紀伊と尾張は徳川関連(常陸は日露戦争と第一次世界大戦で常陸丸が悲劇的な最期を遂げたことにより忌避されたと言われます)。
hush
- ありがとうございます。ほぼ、想像通りでした。捕獲艦名称が鎮守府所在地とは気づきませんでいた。周防が入っていなければ気づいたと思いますが。
富士見町
- > 2.
ゴミで済みませんが、摂津と河内はどうなんでしょう?!
紀伊・尾張の次は、駿河、三河、近江のどれだったでしょうか?!
あと、大和と武蔵は、先代もセットでしたよね?!
それと、信濃は松代(本土決戦時の首都予定地)との関係でしょうか?!
志郎家の番頭
- 富士見町様
いえいえ、どういたしまして。艦名の意味と由来、その命名の文化的背景を探ることをライフ・ワークとしている者としては、よくぞ聞いてくださいましたと申し上げたい位です。ただ、調査も途半ばの感があり、たとえば薩摩の姉妹艦がなぜ安芸なのかと言う点については不明としか言いようがありません。薩摩についての御指摘はその通りだと思いますので、水軍で名をならした平家を祀る厳島神社があり、呉鎮守府、江田島の兵学校があり、広島大本営のあった安芸は、海軍揺籃の地として、また近代の軍都として対比すべき存在として命名されたのではないかと推測する程度です。
「難波潟短き蘆のふしの間も逢はでこの世を過ぐしてよとや」「わびぬれば今はた同じ難波なる身をつくしても逢はむとぞ思ふ 」と百人一首にも詠まれている難波の地は、水の都として認識されておりました。それを継承した大阪府の二国、摂津、河内が次に選ばれたのは自然の流れだったのかも知れません(浪速が巡洋艦の艦名として選ばれたのは、その流れの上にあると思います)。しかも、和泉は巡洋艦の艦名に採用されておりますので(この艦名は原名のエスメラルダの近似音に由来し、候補艦名としては出雲も挙がっております)、残り二国と言うことで余計に都合がよかったと思うのです。
再使用の件に関しましては、実は大和、武蔵が最初ではありません。扶桑がそうですし(初代も戦艦)、筑波、金剛、比叡等もそうです。このようなことが発生する理由としては、拙稿(http://hush.gooside.com/Study/Kanmeibunka/00.html)で書きかけてはいるのですが、明治時代の艦名は歌枕に由来するものが多く、以降の艦名はその流れに沿って命名される傾向にあるからです。したがって、畿内の地名が非常に多く、愛宕(924m)、高雄(429m)、比叡(848m)、三笠(342m)のように1000mに満たない山が選ばれているのに、日本第2の高峰白根山(正確に言えばその北岳の3192m)は戦艦朝日の候補艦名としては選ばれているものの、海上自衛隊になるまで実現しなかった(進水時の防衛庁長官金丸信の選挙区にちなんで命名されたものですが)と言うようなことが発生いたしております(だから、某小説にある穂高、戸隠はいただけない。個人的には妙高や足柄のような重巡洋艦の艦名は、八八艦隊における巡洋戦艦の艦名としても問題のないものと思います)。したがって、艦名として使用可能と認識されていた地名は意外と少なかったと思います。これが、他にも使用できる地名があるのに再使用された理由と愚考いたしております。
また、明治期の戦艦の艦名は富士を例外として日本の異名(富士も日本の象徴として考えればその範疇に入ってくるのですが)、もしくは畿内の地名なのに、装甲巡洋艦は出雲、浅間、吾妻、磐手とそれ以外の地名が多く採用されているのも興味深いものがあります(八雲と常盤はどうなる?だから、多くと書いているじゃないか、それにあれは地名とは違うと考えられるじゃないか。じゃ、春日は?うーん、日露開戦の緊迫した状況下で購入したのだから、それだけ期待したんじゃない…失礼しました)。
香取、鹿島は関東の武神を祀る神社として並称されるもので、日本海軍としては非常に珍しく、武張った艦名を持っております(日露戦争中の進水と言うこともあるかと思います)。2隻対で命名するという方式は両艦を嚆矢とするように思いますが、国名を艦名とすると定められる以前の時期の命名法として興味深いものがあります(個人的には香取の候補艦名であった葦原に興味があります)。
なお、鎮守府関連で命名されたものとしては、古鷹級もそうです。江田島の古鷹山、舞鶴の青葉山、三浦半島の衣笠城址のある丘が命名の由来で、加古が5500t型巡洋艦の予算を流用した関係で河川名となっておりますが、でなければ佐世保軍港の裏山、たとえば弓張あたりが選ばれた可能性があります(そうすると夕張と紛らわしい…)。
艦名の由来を聞かれたので嬉しくて延々と書いて参りましたが(でなくても長いじゃないかと言われそうです)、最後に1隻、信濃が残っています(書き込もうと思ったら指摘を受けているじゃないか)。実は、この艦名と紀伊との関連が分かりません。基本的にある程度の距離を隔てた国名が採用される傾向がありますので(河内、摂津は例外として)、これかなとも思うのですが、関連が分からないのです(これが近江と遠江とかなら分かりやすいのですが)。識者の御意見をお待ちする次第です。
番頭様
摂津と河内は上記の通り。
信濃←松代大本営説。大本営移転の建言書が1944年初頭、施工命令が同年9月、信濃の進水が同年10月。陸軍主導のものですし、あんまり関係ないように思うのですが。むしろ、諏訪神社の所在地…あっ、西国三十三ヶ所の一番札所が紀伊国青岸渡寺、最後が美濃国谷汲寺だけど番外が信濃国善光寺。まさかね…であることの方が興味深いのですが。
紀伊と尾張の次は駿河と近江であろうと言うのが一般的です(http://www.d1.dion.ne.jp/~j_kihira/arsenal/1stfleet/88f/はそうなっております!)。駿河は家康の隠棲先ですから良いのですが、近江はね、何でしょうね。井伊直弼関連でしょうか?それとも距離的に似たような所にある国名を選んだのでしょうか(だから三河が外れたのでしょうか)。尾張で終わりの方がいいように思うのですが(誰かのがうつった)。
先代大和、武蔵は葛城級コルヴェット(http://hush.gooside.com/name/k/Ka/Katsuragi/Katsuragi.html#anchor678279)3隻の2、3番艦です。実は、二代目竣工時、初代大和は浦賀港内で少年刑務所宿泊船として使用されていたはずで、敗戦の年の9月18日、台風(枕崎台風?)により沈没し50年に解体されるという長命艦でした。なお、日本海にある大和堆、武蔵堆は1925年に測量艦として活動していた初代の2隻が発見し調査測量をしたものです。
hush
- hush様
ご丁寧な説明ありがとうございます。私なりに想像すると、大和、武蔵、山城に加え、河内(仁徳天皇その他の河内王朝)、近江(天智天皇の大津の宮)は旧王朝所在地の可能性はないでしょうか。
摂津・河内コンビは「今日も負けたか八連隊」の大阪人を元気づけるためとか。
戦艦だけでなく、重巡の山岳名、軽巡洋艦の河川名使用基準も気にかかるところです。私は子供の頃佐世保に住んでいたのですが、愛宕山という山が佐世保湾口にそびえており、愛宕の名前はそこからとったのかと考えていたことがあります。なぜあんな小さな山の名前を使ったのだろうと子供心に不思議でした。もっとも実際の愛宕山も大して高い山ではありませんね。古鷹型に佐世保の山の名前がつかなかったのは残念です。候補としては弓張り、烏帽子、将冠、但馬といったところですが、あまりピンときませんね。
艦名由来を調べるライフワーク、ぜひ完成してください。
富士見町
- > 5.
> 摂津、河内が次に選ばれたのは自然の流れだったのかも知れません
相済みませんが、どこが「自然の流れ」なのでしょうか?!
> 6.
> 河内(仁徳天皇その他の河内王朝)、近江(天智天皇の大津の宮)は旧王朝所在地の可能性はないでしょうか。
富士見町様に一票。
摂津にも難波宮(天武、聖武天皇)が在ったとのコトです。
志郎家の番頭
- >河内・攝津コンビ(やっぱり黙ってられなかった)
彼女たちも初めて2万トンを超えたということで、一部の識者はともかく、一般的にはかなりの期待を背負ってデビューしています。河内などは竣工翌日には第一艦隊旗艦になっていますし。
先代はどちらも奇しくも同じ1868年に購入されていますが、地理的な要因や王朝があったということ以外に、先代に因んでペアにしたということはないでしょうか? しかも、都合よく(?)どちらも命名基準に沿った旧国名ですし。いろいろと複合的な要因だったのかもしれません。
余談ですが、発注艦名は河内=伊号戦艦、攝津=呂号戦艦ですし、進水、竣工ともに河内が先ですので(起工順だけは逆ですが)、「河内・攝津」という表記順を主張いたします(どうでもいいことでスイマセン)。
>富士見町様
「今日も負けたか八連隊」の大阪人を元気づけるため、の出典をご教示願えませんでしょうか。
>神社
便乗質問で恐縮ですが、河内・攝津に奉られていた神社は、河内国一ノ宮の枚岡神社と、摂津国一ノ宮の住吉神社なのでしょうか?
#鹿島神宮(常陸国一ノ宮)の宝物館には、戦艦鹿島の大きな写真が飾られていました。
MZ
- 富士見町様、番頭様、MZ様
古代王朝説、興味深く拝見させていただきました。命名当時、これらの王朝がどのように意識されていたかを考えておりましたので、返答が遅くなりました。と言うのは、河内王朝と言うのが言われ始めたのが最近のことのように思えたからです。しかし、第18代反正天皇が河内国に都したのは日本書紀にも記されており、当時の人々にも古の王朝として認識されていたと思います。よって、私も一票を投じたいと思います。
>自然の流れ
言葉足らずの部分があり、申し訳なく思っております。平家の本拠地であった(もともとは伊勢が本拠で、津市には平家発祥の地を記念して平忠盛の碑があります)安芸が水軍(海軍)発祥の地として認識されての命名であったという仮説を推し進めると、次に水の都である難波のある攝津が選ばれるのは当然のことであろうとの意味です。また、和泉とともに(大和が入っていた時代もありますが)大阪府を構成していた河内が、海には面していないものの、準ずる扱いを受けても良いのではと思ったからですただ、最後の部分については牽強付会の気味があり、古代王朝説に一票を投じた理由の一つでもあります。
MZ様が仰られるように河内、摂津(謹んで順番を変更させていただきます)はともに二代目であり(先を越されたァ)、そう言う意識が働いた可能性はあると思います。ただ、練習艦であった摂津はともかくとして、初代河内に関してはあまり存じておりませんので、資料を見てから返答させていただきたいと思っております。
>重巡洋艦の山岳名
妙高、羽黒、那智、鳥海については、単なる山岳名と言うより、霊場と言う意識を感じます。足柄については「相模国風土記」にこの地の杉で造った船足が早いと言う記事があり、この点が+@(金太郎も!)。愛宕、高雄は歌枕であると同時に愛宕神社、神護寺の所在地。摩耶は天上寺(一時、六甲にありました)の摩耶婦人像で知られますが、それよりも川崎重工神戸造船所が倒産の危機に瀕したとき、海軍と協力して立ち直った記念として裏山の名をとった方が大きいとのこと(駆逐艦藤、藤波、藤袴の建造所が藤永田造船所であるのも顕彰です)。また、伊吹も荒ぶる神の所在地であり、日本武尊の行く手を遮った神話や伝説等で知られます。総体として、単なる高山ではなく、信仰の対象となった地が選ばれていると思います。浅間も富士浅間(せんげん)神社との関連の方向を考えていいと思いますし、春日、出雲も春日大社、出雲大社を想像します。宗教的観点からの艦名の由来と言うのも面白そうです。
>軽巡洋艦の河川名
天龍、龍田に関しては龍のつながりで命名されたものと思いますが、龍田神社の存在も大きいと思います。球磨と多摩は意識しての命名だと思います。ただ、5500トン型に関しては、五十鈴川のように伊勢神宮を流れる川、名取、由良のような歌枕も存在しますが、河川名と言う以外に全体としての共通性を感じません。
これは森羅万象を神とする古代の日本人の意識の中にも、神と言う言葉が上に由来すると思われるように(髪も頭の上にあるからだと思いますが)、神は上方に存在したと思うからです。ために、山岳信仰は発生しやすかったのですが(実際、最初の神社といわれる奈良の大神(おおみわ)神社の本体は三輪山そのものです)、流れ行く川はなりにくかった(方丈記じゃないけれど、末世思想には似つかわしいものの)。山川草木悉皆成仏ではありませんが(すいません、仏教系の学校に7年間も行っていたので…)、山の次に川が来るのは自然であります(忠臣蔵とか…分かる人いる?このスレッドに書き込んでいる中に、絶対、一人はいると思いますが)。よって、河川名をつけたが、あまり宗教的にも文学的にもならなかったと思うのです。それでも、初瀬以来の河川名である(だったと思う)筑摩、矢矧の場合は、川中島(http://hush.gooside.com/name/c/Chi/Chikuma/Chikuma.html - anchor261477)と矢作川の出遭い(http://hush.gooside.com/name/y/Ya/Yahagi/Yahagi.html)が背景にあると思うのですが(じゃ、平戸はどうなる?にゃぁ)。
ただ、今、関心があるのは本籍地との関係です。どなたか、どの艦がどの鎮守府に属していたか一覧にしている方はおられないでしょうか。そこから見えてくるものもあるように思うのですが(篤志家の出現をお待ちいたしております)。
>今日も負けたか八連隊
今日も勝ったかタイガース。
>愛宕山
これは火伏せの神である愛宕神社を祀っていればこの名を冠しますので、日本中にあります(京都の愛宕神社を本山として900を超す分社が存在します)。日本初のラジオ放送がなされた東京の愛宕山もそうですし、佐世保湾口の愛宕山もそうだと思います(もう一つの火伏せの神である秋葉神社の方は秋葉原の地名にその名を留めています)。
>弓張
実は、その名を冠した船が3隻も日本海軍には存在しました。http://hush.gooside.com/Text/7Y/72Yu/Y24aYuna_.htmlの一番下を見てください。
>♪一番初めは一の宮…
摂津国一ノ宮としては坐摩(いかすり)神社を挙げている場合もありますね。
またも、長くなった…。
hush
- >艦名由来を調べるライフワーク、ぜひ完成してください。
ありがとうございます。ただ、古今東西すべてのフネのと言う無謀な試みですので、完成は数百年後になると思います。気張らず、ボチボチとやっていきます。ご声援、ありがとうございます。
hush
- >「今日も負けたか八連隊」
正しくは「またも負けたか八連隊」のようですね。
http://up.t.u-tokyo.ac.jp/~ketsu/sidansireibu.html
私は九州なので、父から九州の兵は日本最強、大阪の兵は日本再弱と洗脳されておりまして、父からの受け売りです。まあ、昔の人なら誰でも知っていたのだと思いますが。
そんなにバカにされていた大阪の人たちですから当然(海軍も含め)軍隊嫌いになると思います。そこで、最初の国産弩級戦艦に河内・摂津の名前を与えることで、海軍に親近感をもってもらおうと考えたのでは?と想像しただけです。
さて、hushさんのページに戦艦初瀬のことが書いてありましたが、初瀬川は小さな川とのこと。ならば、その川から名前を取ったのではなく、大初瀬のワカタケル(雄略天皇)から名前を頂戴したのではないでしょうか。大初瀬は雄略天皇の王宮があった場所です。
富士見町
- 初瀬は泊瀬川に由来します。百人一首にも納められた紀貫之の「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」の詠まれた地です。ここには長谷寺と言う有名な寺があり、長い谷があったため、そのような名が付いたと言われます。最初は音読みして「ちょうこくじ」だったのですが、泊瀬川に引っ張られて「はつせでら」となり、やがて「はせでら」となります。同時に、泊瀬川も長谷川と書かれるようになり、読みも「はせがわ」となります。長谷川と言う苗字の由来ですが、この泊瀬川が歌枕(百人一首には「憂かりける人を初瀬の山おろし、はげしかれとは祈らぬものを」も採用されています)だったために艦名に採用されました(なお、かつて「世界の艦船」誌上に連載された「艦船名考」では初瀬山とされていますが、どちらにしろ奈良の初瀬です)。
では、なぜ歌枕が艦名となるか。それは命名権者が明治天皇だったからであり、明治天皇が歌人だったからです。かつて角川文庫から歌集も出ており、結構な量の和歌が収められております。文学史では正岡子規以降は短歌となるわけですが、これは紛うことなく和歌でして、和歌である以上、枕詞も掛詞も出て参ります(私の専門は説話文学でありましたが、一応、国文学科ですので)。また、源氏物語や古今集、新古今集等の古典の素養も必要になってきます(春ならば夜明けを、秋ならば夕暮れを詠うのが枕草子以来の伝統であるとか)。この知識(いや、常識かな)を天皇は艦名に使用しました。三笠山は若草山の別名でありますが(もっとも、本来、三笠山は若草山の奥にある山を指したようですが)、わずか342mの標高しかないこの山の名を、連合艦隊旗艦となる最新鋭戦艦の艦名に採用した。「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」と言う和歌があるように、この山が歌枕だったからです。
朝露、朝霜、陽炎、朧、夕暮、霞等ははかなきものの譬えです。雷、電、吹雪なんて言うのは、thunderbolt、lightning、blizzardと言う意味ですと言えば納得してもらえると思うのですが、morning dew、morning mist、morning frost…なんじゃそれは、本当に駆逐艦の名前かと言うのが普通の感覚だと思うのです。日本人でも、朝露は嫌だな、朧って字は龍と言う字が入って強そうだけど、「おぼろ」って弱そうねと、なると思うのです。しかし、これは実在した日本の駆逐艦の艦名であり、「あさぎり」も「ゆうぐれ」も海上自衛隊になってからも使用されている艦名なのです。なぜか。和歌に使われる言葉だったからです。
優美なるものを好み、武張ったものを排除する命名方針は、明治天皇が歌人であったと言う一点に収束され、時にはかないものまでも戦闘艦艇の名に採用すると言う、諸国に例を見ないことにまで発展していきます。そして、この方針は後の世にまで受け継がれ、捕獲したアメリカ船に勝鬨(かちどき)丸と名付けて怒られたと言うことまで起きています。トレパン(ナマコ)なんて名をアメリカは潜水艦の艦名に付けるのですよと笑っておれないわけです(もっとも、トレパンという名も朧と言う名も好きですが)。
明治天皇は軍服を着て髭を蓄えた姿で知られますが、実際は和服と和食を好んだと言われます。近代の政治体系の中で奉られ、演じていた部分もあると思うのですが、身は東京にありながら、心は都にあり、古の世界にあったと思うのです。
hush
- >hushさん
ここはAnsQです。
ご自身の説を発表するなとは言いませんが節度を守ってください。
判りやすく言うと、ご自身のHPで発表して下さい。
SUDO
- SUDO様
了解いたしました。
そのように致します。
hush
- 脇から失礼します。
河内、摂津の命名理由についてですが、河内は楠木正成の根拠地と言うことで、笠置、吉野、千早等と連なる太平記関連による命名とは捉えられないでしょうか。
となるとペアになる国名は和泉ですが、和泉は明治45年4月まで在籍していたから使いにくいので摂津としたと。(もしかしたらここの過去ログにあった説かもしれません。チト自信なし。)
山奥の人
- > 15.
艦名の選定理由は一つだけではなく、いろんな角度から検討してネガティブ要因の少ないものから命名されるものと考えます。
時代背景によって選定基準に若干の変遷は有るでしょうが、河内、摂津の誕生した大正初期までの戦艦名としては、まず何らかの神聖性とか、皇室の事跡などが最重要視されたのではないでしょうか。もちろん、忠臣・楠公の存在は決してネガティブ要因ではないと思いますケド。
志郎家の番頭
- >12
「初瀬」ですが、hushさんがあげられた「艦船名考」がいうように、初瀬山ではないでしょうか。
たしかに初瀬は山・川・地名の三つの可能性がありますが、艦名の根拠について考察するなら、やはりそのうちのどれなのかを明確にする必要があると思います。そうすると、「畝傍」「葛城」「三笠」などとならぶ、大和名山シリーズと考えるのが適切で、あえて前例に乏しい河川名と考える必要はないのではと思えます。(「竜田」は河川名とされることが多いのですが、個人的には筒井筒の「龍田山」ではないかと疑っております。)
カンタニャック