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2273 以前、友人が「八八艦隊計画は最終的に長門型2隻と加賀型2隻以外は戦艦を建造せず、天城型巡洋戦艦を12隻建造するつもりだった」と言われたのですか、そのような事実はあったのでしょうか?その時は確たる根拠が無く反論できなかったのですが、以下のような疑問が浮かび上がりました。
@米軍の50口径16インチ砲戦艦群に天城12隻では対抗できない可能性が大
A12隻の天城型より一三号艦型を取り混ぜての建造の方が米国に対して有利
B米国の新型戦艦(サウスダコタ級の次のクラス)に対抗できない。
これらの事をもし、天城型12隻の量産を帝国海軍が目論んでいた場合どのように対処する予定だったのでしょうか?個人的には天城型の改良型を建造するより新設計の艦を建造するほうが長期的に見て有利な気がするのですが・・・
素人考えな疑問ですが、よろしくお願い致します。
チリIII

  1. その説は、八八艦隊の13〜16番目建造艦の建造予定に、巷間言われる一三号艦型に必要な技術的要素(主に主砲)の開発が間に合わないと見られることから、実際に計画どおり16隻をそろえるためには天城型以外に選択肢がない可能性が高い、という旨ではなかったでしょうか?
    通りすがり

  2. 訂正です。以下のように読み替えてください。
    建造予定→建造予定時期、計画どおり→計画期間内に
    通りすがり

  3. こちらでも回答をなさっている大塚好古先生がお書きになった、学研の歴史群像シリーズ「世界の戦艦」の第四章に八八艦隊計画各艦の設計経緯などがまとめられていますので、御一読されるとよいでしょう。

    さて、質問に対する回答として、上記の「世界の戦艦」の記事のさわりだけ述べると、天城級以降の計画艦は、戦艦「紀伊」級も土佐級の発展ではなく、早期竣工と高速化のため、天城級の設計をベースとした「高速戦艦」として計画されていたとのことです。
    (天城級は「巡洋戦艦」とは言いながら、長門級を上回ると判定されるほどの防御力を兼ね備えた優秀艦でしたが、紀伊級の防御力は、それよりさらに一段と強化されていました。)
     従って、「天城級を12隻建造するつもり」ではなく、「天城級以降の戦艦・巡洋戦艦の設計は、天城級の設計をベースとした発展型(高速戦艦)となるはずだった」と理解するのが正しいのではないかと思います。

    つね

  4. 紀伊型を天城型に代わり建造した場合、工期遅延、建造費増大、速力低下による艦隊速度の不一致など悪い面ばかりでて、装甲強化がそれに見合うものとは全く思われません。
    十三号艦も大正13年(1924年、つまりワシントン条約後)12月18日に摂政宮(後の昭和帝)に進講した平賀氏の「列強軍艦設計の大勢に就て」でも「八八艦隊中残余の四隻は全然未定なりしといえども、十八吋砲の八門か、若くは少なくも米国戦艦同様に十六吋三連装四基(十二門)の高速戦艦にして、排水量も四万七八千トンに達せずんば止まずと言う形勢に在りたる様に推察す。しかしてかかる艦型について研究中に十年末、華府会議開催さるる事となれり」とあるように現実には設計されていないと思われます。
    現在流布している「十三号艦」は平賀氏の弟子の一人福井静夫が平賀構想を受け戦後書いた予想図が勝手に一人歩きしてしまったもののようです。
    主砲も当時は試製48cm砲が開発中でこれと平行して46cm砲を開発するのは非常に困難。主砲・装甲・機関がそれぞれ問題に直面している以上、仮称十三号艦や天城を越えるものを建造するのは仮に建造費や維持費がクリアできたと想定しても不可能だったのではと思われます。
    チリIIIさんは個艦性能に固執されていらっしゃるようですが、国力から考えて八八艦隊元計画のような頻繁なモデルチェンジは財政的にも建造期間的にも不利でした。短期間に統一された30ノット高速戦艦の出現は米国にとっても非常な脅威であって十分すぎる抑止力だと思います。結果的にこの天城型量産計画は軍縮条約を呼びこんだのですからまず成功だったと判断してよいのではないでしょうか。
    戦艦乞食

  5. 紀伊型8隻連続建造の可能性はあっても、天城型12隻は無いでしょう。
    当時は建造年次が違えばモデルチェンジは当たり前。
    紀伊型は紀伊・尾張が起工されております。
    この2隻が天城型の連続建造であれば天城型と分類されている筈です。

    僅かな速度低下と引替に強力な防御力が手に入るなら設計変更の理由として充分。
    同一行動が必要な時は天城型が紀伊型に合わせればいいだけです。

    装甲の厚みを変えた程度で大幅な工期遅延や建造費上昇が生じることはありません。
    装甲以外は同型なので建造手順は変わらず。
    12in装甲の製造経験が既にあるので11.75in製造の技術的問題は無し。
    浸炭・焼入れの手間は11.75inも10inも変わらず。
    船殻・機関・武装等の工事量を考えれば装甲製造・装着は小さなもの。
    AI

  6. 八八艦隊は元々、加賀の次は
    赤城型巡戦四隻 43000t 31ノット 41cm×8
    紀伊型戦艦二隻 45000t 31ノット 41cm×12
    一号型巡戦四隻 46000t 33.5ノット 46cm×8
    三号型戦艦二隻 48000t 31ノット 46cm×8
    となっていたようですが量産効果と建造期間短縮(4年→2年)のため
    赤城型巡戦八隻 41000t 30ノット 41cm×10
    未定 四隻
    と下方修正せざる負えなかったようです。
    装甲製造能力ですが当時の日本には小さいと言えるような問題ではありませんでした。
    紀伊型も設計したは良いものの装甲製造が間に合わないと言う回答がされています。
    また起工された紀伊型ですが当時の日本海軍では巡洋戦艦単一整備論が提唱され始められており、戦艦と言う呼称は対議会・対外的な方便だったようです。
    最終的に最後の4隻も天城型と同型とされたらしい事を考えると真の紀伊型とは?

    紀伊型の速力ですが「世界の戦艦」でも大塚先生が考察されておられるとおり、実際にはあれだけの装甲強化があの排水量で収まるとは考えられず28ノット台に落ちただろうと思われます。そうなると長門・加賀のグループと紀伊型、天城型と3グループに速度がわかれてしまいます。
    元々30ノット以上できればレキシントン級に匹敵する速力が欲しいゆえの天城型巡戦ですから、これを紀伊と同一行動させるのはちょっと無理があります。
    逆にあの程度の装甲差は後の改装時にいくらでも取り返せます。改装時の設計や製造においても全く同一なものの方が有利ですから、長期的に見ても紀伊型を建造するメリットはありません。
    八八艦隊計画における天城型量産はとにかく安価に対米主力艦を整備する事を急務としたものであり、これを多少の個艦性能と引き換えにするつもりは無いでしょう。
    後年のわずかな性能向上のために複雑精緻な設計をし量産性を置き忘れた日本軍と違い、数こそ力と言う事を熟知していたがゆえの判断だったと思われます。

    しかしながら現実にはこれらの主力艦を建造しても維持する国力はありませんし、関東大震災や第一大戦終結による経済の悪化はそれに拍車をかけたでしょう。
    もう仮想戦記の世界ですがこの時点で後期建造艦が一時凍結され軍縮条約、もしくはさらに先進的な英国のG3・N3を念頭に後の艦は仕切り直しとなった可能性は大きいだろうと愚考します。
    戦艦乞食

  7. まず訂正。起工されたのは天城型の高雄・愛宕です。

    八八艦隊計画は急速建造計画ではありません。
    艦齢8年未満の戦艦・巡戦を常時8隻ずつ確保し代艦建造を進める長期計画です。
    天城型急速建造という思想自体が八八艦隊計画とは相容れません。

    当時の日本海軍は、同系統の艦を小改良を繰り返しつつ連続建造しております。
     球磨型→長良型(610mm魚雷搭載)→川内型(石炭比率上昇)→5600t型(武装強化)
     峯風型→神風型(復元性能改善)→睦月型(雷装強化)
    戦艦のみが対象外になるとは考えられません。製造能力が追いつけば装甲は確実に増厚されるでしょう。

    >紀伊型も設計したは良いものの装甲製造が間に合わないと言う回答がされています。
    直接続く意見が設備増強要求か艦型切下げ要求かで、この回答の持つ意味は全く変わります。
    生産能力が間に合わなければ、計画実現に向けて設備増強を行うという選択肢もあります。
    実例としてあるのが、金剛型建造時の長崎・神戸の設備増強、
    大和型建造時の呉ドック掘り下げ、長崎船台増強、佐世保・横須賀ドック新設、光工廠新設。
    八八艦隊計画時は、甲板生産能力の増強工事が進められており、
    大正8年着手・12年完成の呉第2甲板鍛錬工場は甲板生産能力を飛躍的に高めています。
    装甲製造が間に合わないという回答はこの増強工事を踏まえた上でのものか。
    踏まえた上のものであれば更なる設備増強を却下して計画切り下げを正式決定したのか。
    そこまで資料を発掘しなければ真意は掴めません。

    また、予算確保後艦型改良と称し計画時とは別形式の艦として作ることもあります。
    金剛型4隻は第3期拡張計画(明治36)、日露戦争臨時軍事費(明治37)、明治40年度計画で
    装甲巡洋艦として予算を確保し、明治44年度計画で艦型変更を受けて実際の形になりました。

    >紀伊型の速力ですが「世界の戦艦」でも大塚先生が考察されておられるとおり、実際にはあれ
    >だけの装甲強化があの排水量で収まるとは考えられず28ノット台に落ちただろうと思われます。
    >そうなると長門・加賀のグループと紀伊型、天城型と3グループに速度がわかれてしまいます。
    設計案が0.25kt減でまとまっている以上、起工前にこのような考慮はあり得ません。
    設計案通りの速力が発揮されるものと考えて起工します。
    速度不足が生じた場合、判明するのは紀伊型1番艦の公試時。
    この時4番艦までは確実に進水済、5〜8番艦も起工済。計画変更には遅すぎます。
    紀伊型が速度不足だった場合、紀伊型8番艦の後に30kt艦を続ければ、
    第1艦隊28kt・第2艦隊30ktの速度統一は2年遅れ。
    金床と槌が同じ速度で走る必要は無いので、金床の防御力強化は戦術上プラス。
    第1艦隊のパリティは英米の主力戦艦隊であり、28ktは敵23ktを凌駕します。
    第2艦隊が相手すればいい敵遊撃まで追いかける必要はありません。

    >逆にあの程度の装甲差は後の改装時にいくらでも取り返せます。改装時の設計や製造においても
    >全く同一なものの方が有利ですから、長期的に見ても紀伊型を建造するメリットはありません。
    代艦が連続建造される状況では既存艦の大改装はありません。資源は新艦建造に回します。
    所詮8年経過後は2線級扱いする艦。防御力を強化するほどの価値はありません。
    紀伊型は無改造でも敵主力を振り回す機動力と正面から戦う防御力を兼ね備えますが、
    天城型の防御は長門を凌駕していても406mm相手ではまともな安全距離は取れません。
    AI

  8. 天城型量産論は矛盾を抱えています。

    装甲製造能力が不足なら建造期間短縮は不可能。
    計画通りの年2隻ペースで天城型を生産していくしかありませんが、
    これは諸外国の戦艦の発達の可能性を完全に無視しています。
    当時は建造年次が4年違えば技術も作られる船も全く変わった時代。
    ドレッドノートとQEは7年、オライオンとQEは3年、QEとフッドは4年差。
    金剛と長門は5年、長門と天城は4年差。
    1920年頃、英米は共に18inを次世代主砲として開発中です。
    ド級が量産される中薩摩型・筑波型・伊吹型を作らざるを得なかった失敗を
    再度繰り返すつもりでしょうか。

    急速建造が可能なら装甲製造能力は追いついています。
    天城型・工期2年の場合必要な能力は、紀伊型・工期4年と比較すると、
    船殻と装甲以外の艤装は2倍、装甲は1.6倍。
    天城型急速建造終了後、次の建造計画が続かなければこの大能力が遊休化し、
    ピークロード増大とオフピークの設備遊休化の問題を共に抱えることになります。

    次の建造計画の予算確保は非常に難しいでしょう。
    艦齢を定めた上での代艦建造なら高くても予算は通りやすいですが、
    艦齢短縮や総戦力増加は財政が厳しい状況ではまず通りません。

    天城型量産論は、量産期間中の情勢変化や量産終了後を踏まえた長期的視野が無い。
    技術発達、工廠稼働率の平準化、予算確保等を考えれば、
    単価上昇を招いてでも建造計画の平準化を図るのが普通です。

    AI

  9. 紀伊型は天城型と船体・機関・武装・燃料搭載量を同一とし、防禦を強化(舷側最大10in→11.5in、甲板3-7/8in→4-5/8in)したものとされています。
    最大厚さ部分の舷側装甲の重量を概算してみますと、
    天城型: 0.25m×5.5m×135m(第1〜第5砲塔中心間)×2(両舷)×7.9=2,933T
    紀伊型: 0.29m×5.8m×135m(第1〜第5砲塔中心間)×2(両舷)×7.9=3,588T
    増加分: 655T
    同様な概算で水平装甲の増加分もほぼ650T前後と見積もられます。
    常備排水量は天城型: 41,200T、紀伊型: 42,600T、増加分: 1,400Tですから矛盾しません。
    最大速力ですが、所要出力が排水量に比例、速力の三乗に比例としますと、
    天城型: 131,200÷(41,200×30×30×30)=0.000118
    紀伊型: 131,200÷(42,600×29.75×29.75×29.75)=0.000117
    ・・・ですから、紀伊型の最大速力29.75Ktは極めて妥当な見積り値と言えるでしょう。
    あと、兵器は相対的なものですから、相手の出方にある程度対応できるように柔軟性を持たせて計画することが必要で、あまり先の先まで路線決定してしまうのは宜しくないと存じます。
    志郎家の番頭

  10. > 4. 
    > 主砲も当時は試製48cm砲が開発中でこれと平行して46cm砲を開発するのは非常に困難。
    試製48cm砲は大正5年に設計着手、同9年に完成し試射に供されています。強装薬発射の際に尾栓が吹っ飛んだとのコトですが、砲身自体は修理の上、大和型の46cm砲の実験にも使われたそうですから、この経験を生かせば、一回り小さな46cm砲の実用化は大正14年頃には可能であったものと考えられます(大和型の46cm砲は昭和9年設計着手、同13年3月に第1門が完成)。

    > 主砲・装甲・機関がそれぞれ問題に直面している以上、
    装甲はインゴット(鋼塊)から圧延、機械加工して所要の寸法に仕上げ、熱処理して強靭化するものですから、生産量が不足であれば設備拡充で対応するのが現実的でしょう。
    残るは機関ですが、まず主機は、
     長門型 艦本トリプルフロー式高低圧2シリンダー・ギヤードタービン 1軸当り20,000shp 1シリンダー当り10,000shp
     加賀型 技本式高低圧2シリンダー・ギヤードタービン 1軸当り26,000shp 1シリンダー当り13,000shp
    次の天城型からは、減速歯車装置の前後に低圧タービンと高圧タービンを2基ずつ「甲」の字に並べ、推進軸1軸当り高低圧合計4シリンダーの構成として、1シリンダー当りの負荷増大を抑えることにより、信頼性向上と全体の大出力化を図っています。
    (後年の大和型の主機構成のベーシックモデルとなったと思われ)
     天城型 技本式高低圧4シリンダー・ギヤードタービン 1軸当り32,800shp 1シリンダー当り8,400shp
     紀伊型 同上
    13号型も当然この基本構成を踏襲したものと考えられますので、 
     13号型 技本式高低圧4シリンダー・ギヤードタービン 1軸当り37,500shp 1シリンダー当り9,375shp
    ・・・となり、当時の技術水準で十分実現可能と考えられます。
    次に主缶は、
     長門型 ロ号艦本式 炭油混焼缶×5基 1基当り2,650shp 重油専焼缶×15基 1基当り4,450shp
     加賀型 ロ号艦本式 炭油混焼缶×4基 1基当り3,000shp 重油専焼缶× 8基 1基当り9,875shp
     天城型 ロ号艦本式 炭油混焼缶×8基 1基当り3,000shp 重油専焼缶×11基 1基当り9,745shp
     紀伊型 同上
     13号型 ロ号艦本式 重油専焼缶×14基 1基当り10,715shp
    ・・・ですから、缶についても同様に十分実現可能です。
    以上より、紀伊型はもとより、13号型も当時の技術的水準で計画通りに実現可能であったと考えられます。
    (ただし主砲口径の割に船体が細長いので、安定したプラットホームとなったかは疑問無しとせず)
    何はともあれ、数で劣勢なのだから、個艦性能で優越しなくては、千に一つも勝機は無くなるでしょう。
    志郎家の番頭


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