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長門の大戦後半時における最高速度は何ノットだったのでしょうか? 阿川 弘之著の「軍艦長門の生涯」によると、大改造後、計画速度24.5ノット に対し、公試で24.98ノット出たので「25ノット」と称したようです。 この後の対空火器の増備やらで重くなることはあっても軽くなることはない となると、最後まで最高速度25ノットを維持できたとは思えないのですが。 TOTO |
- レイテ海戦当時の重量増加分としては、
25mm三連装機銃14基 1.8 x 14 = 25.2 トン
25mm単装機銃36基 0.785 x 36 = 28.26 トン
13号電探 0.11トン
21号電探 0.84トン
22号電探 1.32トン
合計 55.73トン
電探は複数装備しているかもしれません。また電探重量は
http://www.combinedfleet.com/radar.htm
から取ってきていますけど、どこまで含んでいるのか分かりません。
とは言え、重量増加は200トン程度ではないでしょうか。
仮に、公試42,753トンが200トン増加して42,953トンになったとしたら、推定速度は24.95ノットになりますが、ほとんど誤差範囲でしょう。また、重量増加が1,000トンでも速度は24.85ノットと推定されます。
レイテから帰投後さらに機銃が増えていますが、副砲を2門撤去していることもあるため、重量がどうなったかは分かりません。
富士見町
- 昭和19年7月の対空兵装増備後の要目として
排水量:43581t
速力 :24.98ノット
という数値があります。
どこまで測ったかは判りませんが、大改装後の公試時とほぼ同等だったのでしょう。
tackow
- 回答ありがとうございました。
「軍艦〜」では昭和10年の大改造で、計画排水量43600tで速力24.98ノットでした。昭和19年と全く変わってないですね?? どちらかが間違っているのかも。
もうちょっと疑問がわいたのですが、
1.我々が目にする要目の最高速度というのは計画時の速度なのか、公試で出た最高速度だったのでしょうか?
2.前にこちらで話題になっていましたが、25ノットしかでない長門がなぜ27ノットの大和、武蔵と第一遊撃隊になったのでしょうか?(もっとも、小沢艦隊にも25ノットの伊勢、日向がいましたが)
となると、大和型が「使えなかった」と理由の一つの「速度が30ノットでない」というのも「使うべき時に使えなかった」言い訳(?)なのかも。。。
TOTO
- >3
1.
TOTOさんがどういう資料の要目をご覧になっているか見当もつきませんが、例えば
「世界の艦船」等に載っている要目はそのほとんどが計画速力だと言えるのではな
いでしょうか。公試等での実績値が記されている事もありますが、その場合は必ず
といっていいほど「公試では○○ノットを記録した」等と明記されているはずです。
2.
>大和型が「使えなかった」と理由の一つの「速度が30ノットでない」
そんな理由はないと思いますよ。
30ノットという数字が機動部隊との随伴うんぬんを意味するのならば、加賀や龍驤、
飛鷹型、瑞鳳型などの速力を考えればおわかりかと。
大和型は「建造目的通りの使い方をする為に」他の用途にはほとんど使わなかった
のですが、その「建造目的通りの使い方」をする機会が最後まで到来し得ず、また
他の用途に使用するにも燃料事情がそれを許さなかったのだと言えるでしょう。
枚方太郎