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空母隼鷹、飛鷹はもともと豪華客船で建造中に海軍に買い取られ空母改造を受けていますが、このとき(完成後だったかも)火災に備え可燃物を取り除く作業をやった人の話で「元が客船だったので木製の飾りなどたくさんあったが斧で壊し・・・。」という話を聞いたことがあります。しかし建造中に買い取られたのならこういった航海に関係ないものは一番最後に付けられるため最初からついていないのではないでしょうか?(それとも客船と軍艦では作り方が違うのか?) ホーク |
- 客船でも軍艦でも、進水前に出来る工事はやってしまうものです。内装関係に着手が始まっていたとしても不思議は無いと思いますよ。
SUDO
- 記憶だけで回答するのは憚られるのですが、参考までに。
上記の延焼対策で木製のものを撤去したのは、空母改装時ではなくマリアナ沖海戦前ではなかったでしょうか?
空母改装直後では、士官室などにピアノが置いてあった等の回想もありましたから、格納庫や武装関連に差しさわりの無い部分、つまり客船からの転用部分に関しては、改装工期を短縮する上から何も手を着けなかったのかもしれません。
また、同海戦前の木製品撤去に関しては運用長(桜庭氏?)の強い態度により、予備の手術台として使うテーブル1つを除き、全ての木製品を撤去させたため、場合によっては室内側壁(木製の内張り)なども斧で叩き割り、引っぺがしたとも聞きます。おそらくこの事例に尾鰭がついたのではないでしょうか。
能登
- 橿原丸は三菱重工業長崎造船所で1939年3月20日、出雲丸は川崎重工業神戸造船所で同年11月30日に起工され、40年10月に工事中断となっております。41年2月に海軍が購入し同年6月に進水しておりますので、当時の日本の建造能力を考えると橿原丸はともかく、出雲丸は内装関係まで手が回っていたかどうか微妙であると思います(ちなみに、浅間丸は1927年9月10日起工、28年10月30日進水、29年4月完工となっております)。
かつて「世界の艦船」誌上にも紹介されておりましたが、同船の内装を描いたスキームは息を呑むほど美しいものがありました。国策から不要な船を造らせられたという話もありますが、この両船にかける意気込みと言うのは凄まじいものがあったようです。逼迫する国際情勢の中とは言え、工事中断まで意気込んで工事をされたと思いますし(ダイアモンド・プリンセスの火災事故に際して三菱重工業長崎造船所が誠意を持って対応したように)、工事中断がただちに空母への改造を意味しているわけではないので、橿原丸の場合、ある程度内装関係まで進んでいた可能性はあると思います。
hush
- 今頃何ですがhttp://hush.gooside.com/Text/1K/11Ka/K02kKashi_.html#anchor158637に橿原丸の内装スキームを掲載しました(スキャナーを買ったので…)。
hush