1978 |
河内型戦艦はどいうして口径の違う二種類の12インチ砲を搭載したのでしょうか。 当時の日本海軍には単一巨砲とは違う思想があったのでしょうか、それとも技術的な制限でもあったのでしょうか。どうかご教示ください。 中村 |
- 前後端の砲塔以外は中心線から大きくずれた配置にして砲の絶対数を稼いだ為、50口径の砲だけにした場合かつての三景艦のようにバランスを崩しかねないため全てを50口径にする事を断念し、その上で強力な50口径砲を搭載する事自体は諦めなかった為中途半端になったそうです。結果はご存知の通り、弾は共有できても照準諸元を共有できず指揮系統に支障をきたし、おまけにせっかく増やした砲も片舷にしか指向できない有様で竣工から数年で主力から外されてしまいました。
HCN
- >1.
両舷砲塔は中心線から大きくずれたと云っても左右対称ですから、全部50口径砲にしたところで三景艦のようにバランスを崩すということは無いと思われます。別の理由では?!
志郎家の客人
- 艦首尾砲塔の砲身長を伸ばすことを強硬に主張した人にはあの東郷平八郎もいました。
日本海軍はまだ単一巨砲というよりは副砲・中間砲の延長で舷側砲塔を捉えていたものと思います。
勝井
- Ans.Qの1610で同様の質問をした者です。なぜか私ももう何ヶ月も「河内の謎」にず〜っとひっかかっています。
1610で皆様からいただいた回答以外に、tackow様に教えていただいた「日本海軍史」を読んだり、その他自分なりに調べた結果を記したいと思います。
河内の主砲の「ワケ」は大きく2つ考えられるようです。
(1)戦術上のワケ
「日本海軍史」によると、河内設計・建造当時の明治末の日本海軍の戦術を特徴づけるのは、日本海海戦において有効性が証明された「近戦主義」です。副砲も効果を発揮しうる7〜8km程度の距離で
砲戦することが公式の戦術とされ、遠距離砲戦は念頭になかったようです。
佐藤鉄太郎によると10km以上で戦火を交えるなどは「避敵主義」だ(「海軍戦理学」大正2年)そうで・・・。
秋山真之もドレッドノートの副砲廃止を非難し「今後遠距離砲戦のみになると考えるのは皮相的な観察に基づく誤りで、戦闘や戦術の何たるかを理解していない。多くの場合において近戦でなければ雌雄を決せられないし、近戦では少数の主砲よりも多数の副砲の方が遥かに効力が大きい」(「海軍基本戦術」第一編、明治40年)と言っています。
結局、よく言われるように、舷側主砲はあくまで副砲あるいは中間砲の究極的に発達したものであると見なすのが正解のようです。
副砲あるいは中間砲であれば、首尾線の主砲とスペックが異なっていても問題はないわけです。
とはいえ、河内完成後の大正に入ってわずか数年で日本海軍における想定戦闘距離は20km程度にまで延伸してしまうのですが。
(2)予算上のワケ
warships1.comに"financial situation"により、50口径砲を限られた数しか調達できなかった旨の記述があります。
また、他サイトですが「三脚檣掲示板」で「予算難で50口径砲を1隻分しか調達できなかった」旨の発言をされている方がいらっしゃいました。
#これらの話の裏を取りたいと思っているのですが、ド素人の私には今のところこれ以上調べる手立てがありません。
#どなたか、ご存知ないでしょうか?
この説だと、元々は45口径で統一するつもりだったが、50口径が出て来たのでそちらに乗り換えようとした。しかし予算の都合で50口径を12基調達できず、でも新型砲も欲しいので混載になったということみたいです。
で、混載でもいいや、と判断した根拠は(1)に拠るのではないでしょうか。
便乗質問なのですが・・・河内は明治40年末の第24回帝国議会で明治41年より工事に着手すべく協賛されているのに、実際の起工が明治42年4月1日なのは、何故なのでしょうか?
またこの間、明治41年11月24日に前後主砲の50口径化が(東郷平八郎の鶴の一声で?)決定していますが、これはどのような場(会議?)で決定されたのでしょうか?
この1年の遅延がなければ、全ての主砲が45口径になって、後世それほど評判を落とさずに済んだのではないかと思ってしまうのですが。
あと、50口径砲は45口径砲とスペックを揃えるために減装薬で使用したとのことですが、具体的に装薬を何kgにしたとかの記録はないでしょうか? 砲身の長い分、初速を揃えるためには45口径砲の装薬量よりは若干少なくしたのだと思うのですが、そんな微妙に装薬量の異なる薬嚢をわざわざ用意したのでしょうか?
MZ
- 過去ログは気づきませんでした、恥ずかしい限りです。
戦術思想と予算、双方の理由が考えられるのですね。東郷元帥の発言は私も気になりますので、ちょっと調べてみようと思います。
皆様ありがとうございました。
中村
- >4
大和の18インチ砲(強装で6個)から巡洋艦の6インチ砲(強装で4個?)まで
(14センチ砲もそうだけど)
薬嚢を数個詰めて発射しますから
薬嚢自体は50口径と45口径共通で、個数が違うのではないでしょうか?
Kleist
- >6
ご回答、ありがとうございます。
それも考えてはみたのですが、45口径の薬嚢の個数を知らないのでなんとも言えませんが、他の砲の例から考えて4〜6個だとすると、1個減らして17%〜25%も装薬量を減らしてしまうと45口径より初速が遅くなってしまうような気がするのですが・・・。
MZ
- >7
12吋砲の事例は判りませんが、普通、大砲ごとに火薬量違います。
45口径と50口径では一袋あたりの容量も異なるのではないかと思います。
また、強装や弱装では、装薬そのものも違います。同じ装薬で量を加減してるんじゃないんです。
と、いう訳で、昭和期の日本海軍の45口径・50口径でどう違うのかはこんなトコですかね↓
☆45口径20糎砲 口径203mm 弾重113.4kg
常装:60DC-27.3kg-765.0m/s 強装:70C2-30kg-855.0m/s 弱装:70C2-21.1kg-650m/s 減装:35C2-10.74kg-515.0m/s
☆50口径20糎砲 口径200mm 弾重110.0kg
常装:60DC-34.3kg-875.0m/s 強装:70C2-36kg-943.4.m/s 弱装:50C2-21.4kg-715.0m/s 減装:35C2-11.43kg-515.0m/s
☆50口径2号20糎砲 口径203mm 弾重125.85kg
常装:60DC-35.5kg-840.0m/s 強装:60DC-37.2kg-871.5m/s 弱装:60DC-27.5kg-715.0m/s 減装:35C2-12.90kg-515.0m/s
☆55口径2号20糎砲 口径203mm 弾重125.85kg 2号20糎の砲身延長試作モデル
常装:55DC-34.2kg-865.0m/s 強装:55DC-36.1kg-895.7m/s 弱装:55DC-25.3kg-716.9m/s
☆45口径36糎砲 口径355.6mm 弾重673.5kg
常装:80DC-142.0kg-775.0m/s 強装:90C2-145.0kg-816.5m/s 弱装:90C2-106.2kg-665.0m/s 減装:70C2-74.0kg-505.0m/s
☆50口径36糎砲 口径355.6mm 弾重673.5kg 研究試作用
常装:80DC-156.0kg-808.5m/s 強装:80DC-168.0kg-845.5m/s 弱装:80DC-116.0kg-665.9m/s 減装:80C2-65.0kg-510.2m/s
80DCとかってのは装薬種類です。
あるスペック(例えば12吋45口径と同じ速度)が欲しいならば、それを前提とした装薬セットを予め決めて用意しておけばよいだけではないかと思います。
SUDO
- >8
追加ね。
勿論、装薬種を変えないで量を加減する事もします。
例えば2号20糎砲では常装・強装・弱装は薬嚢数で加減できそうですね。
(試作品の20糎55と36糎50はそこまで厳密にしていないと想像します。また初速は実測値と射表上のカタログ値が混在してます)
ざっと見て、各砲の弱減装は同初速になるように調整したものと考えられます。
恐らく50口径12吋砲では、45口径と同初速になるように調整された装薬セットが存在したんでしょうね。
SUDO
- SUDO様、詳しいご回答ありがとうございます!
かなり芸の細かいことをやっていたんですね(ちょっと安心)。
具体的な12吋砲45/50口径の装薬量が載ってる本とかがあるといいのですが。
防衛研究所史料閲覧室しかないのでしょうか(なんか敷居高くて・・・)。
MZ
- 「薩摩」の場合、口径が異なる砲で一斉打ち方を実施していますから、50口径砲の装薬を減らしてまで45口径に合わせる必要があったのか、そもそも疑問に思えます。
また、「河内」の就役時は砲台毎の独立打ち方が主流ですから、なおさら砲の初速を同じにする理由に乏しいと思います。
tackow
- >11
確かに、初速を揃えなかった可能性もあるのかもしれませんが、色々な本に「通常首尾線砲は弱装で射撃した」と書かれているのも事実ですし・・・(だから具体的な数値を知りたいのですが)。
tackow様に教えていただいた「日本海軍史」の受け売りですが、明治45年5500m、大正2年7500mだった戦闘射撃の射距離が大正7年には「略主砲の最大仰角に相当する距離」(20〜25km)に延伸されています。また大正5年の編隊戦闘射撃では河内・摂津の「主砲」は10000m 、同「副砲」は7000mという分け方になっていますから、例えば河内就役直後は初速を揃えていなくても、その後初速を揃えるようになったということはないでしょうか。
MZ
- 同書で黛氏の「初期国産戦艦薩摩・安岐の砲戦術的価値」が紹介されていますが。同氏によれば「薩摩・安岐の主砲、中間砲の射撃距離が13000ないし16000Mに伸びても大きな散布界を形成する事はなく、一人の射撃指揮官による射撃指揮に大きな影響はなかった」と述べています。
また、大正5年の河内による研究射撃では「30センチ砲は演習弾、弱装薬」としており、「摂津の後部砲塔一基は独立指揮、河内の後部砲塔二基は独立、又は単一指揮(指揮所が損害を被った設定のため)」ですから、特に砲台を分けて指揮している様子もありません。従って、装薬をわざわざ減らして50口径と45口径とで初速を合わせているとは思えないのです。
但し、確かに「色々な本に」書かれている事はそれなりの根拠があるとも考えられますから「こうだ」と決めつける訳にもいかないのでしょうが。
tackow
- 市販されている「色々な本」では出典が示されていないことが多く、信頼するに足る一次資料に記された事なのか、二次・三次資料に基づくのか、それとも伝聞なのか、あるいは単なる筆者の思い込みにすぎないのか、後世それを読んでいる我々には分からないものが多いですよねぇ(私が1610で教えていただきたかったのも、一次資料に基づき、その出典を明らかにしている書物が出版されているのかどうかを知りたかったのです)。
12で私が言いたかったのは、大正2年程度の近距離なら直射に近いので初速は関係なかったが、大正7年(河内が沈んだ年ですが)のように最大射程近くになると、それなりの遠距離一斉射撃になっていて初速を揃えていたのではないかという単なる「推測」です。でも中間砲込みで16000mでも大丈夫となると・・・?
ところで、薩摩・安芸の件は「軍事史学」に、大正5年の河内・摂津の件は「大正五年公文備考」にそれぞれ記されていたのでしょうか?
#「日本海軍史」にはそこまで記されていなかったと思うのですが(図書館でコピーしただけなので)。
「軍事史学」は入手したり大学図書館等で閲覧が可能なのかもしれませんが、「大正五年公文備考」はやっぱり防衛研究所史料閲覧室ですか?
MZ
- たとえ遠距離でも、口径が異なる艦が同じ指揮官の下で統一射撃を実施出来ますから同じ艦だと問題ないと思います(もちろん指揮官が熟練していないと無理ですが)。
黛氏の回想は軍事史学と氏の著書に書かれていたと思います。どちらも防衛研究所が国会図書館にあった筈です。公文備考は防衛研究所ですね。
#私も本腰入れて調べたわけではありませんから、MZ様の研究成果を期待しております。
tackow
- tackow様、ありがとうございました。
地方在住なので防衛研究所にも国会図書館にもなかなか行く機会が作れないのですが、他に調べる方法もなさそうなので、いつか行って調べてみようと思います(もちろん「研究成果」だなんて大したことはできるわけもないですが)。
MZ