1968 |
日本海軍が誇った開戦時の第一航空艦隊ですが、総旗艦はどうして「赤城」が選ばれたのでしょうか? 左舷艦橋に関して空母としての能力に多少の不都合があったでしょうし、「赤城」の大改装内容は予算不足で「加賀」より徹底できなかったとも聞きます(煙突関係は最初から特に問題がなかったので「加賀」より工数が少なくて済んだものの、主砲移設、高角砲等は予算不足で更新できず)。 「加賀」比、約3ノット高速の速力差だけが「赤城」が選ばれた理由でしょうか?それならもっと高速の「翔鶴型」が選ばれなかったのは航空隊の技量の問題でしょうか? 「大鳳」や「武蔵」は竣工後すぐ旗艦になっているのに・・・ 赤城越え |
- 端的に言えば、「第一航空戦隊旗艦として使っていたから」でしょうね。一航艦司令部は一航戦司令部が兼任していましたから、赤城か加賀のどちらかしか選択肢がありません。そして今まで赤城を使って問題なかったので、そのまま使ってたんでしょう(笑)
旗艦として使うには、空母単体の能力よりも、司令部の設備・人員を収容できるだけの空間余裕の方が重要です。赤城でも加賀でもその点に違いがないならば、わざわざ動かさないでしょう。
tac
- 質問を投稿してから後から自分なりにあれこれ調べてみたんですが、第一航空艦隊創設時からミッドウェイに至るまで1ヶ月〜数ヶ月くらいのサイクルで第一航空艦隊旗艦が「加賀」になったり「赤城」になったり「翔鶴」になったりしていたというのが分かりました!
『○○海戦時という時期は「赤城」が旗艦であり中将旗が翻っていた』ともありました。なんでこんなにコロコロ旗艦を変えていたのでしょう???
赤城越え
- >2.
2隻程度で編成される戦隊の場合、「乗組員の士気高揚」という面があるのではないでしょうか。
艦の能力に大きな差がないのに、どちらか片方だけ旗艦になったことがないとなれば、不満に思う乗組員もいるでしょう。
真珠湾攻撃時、第2航空戦隊の旗艦は「蒼龍」でしたが、ミッドウェー海戦の直前、加来止男「飛龍」艦長の「旗艦がいつも蒼龍なので、飛龍の乗組員が寂しがっています。たまには司令官も飛龍に乗って下さい」という奨めに従い、山口多聞第2航空戦隊司令官は飛龍を旗艦にしてミッドウェーに赴いたそうですし、長門と陸奥も交代でGF旗艦を勤めていたそうです。
また、整備や修理のために旗艦に使っていた艦がドック入りした場合は、否応なく期間を変えざるを得ません。
例えば、第3艦隊の旗艦は発足当初は「翔鶴」でしたが、南太平洋海戦で「翔鶴」が損傷修理のため戦列を離れると、「瑞鶴」が旗艦になり、「翔鶴」の戦列復帰後も「大鳳」が配備されるまで、旗艦を勤めていたそうです。
T216
- >2
昭和16年4月10日の1AF編制以降、「加賀」が戦隊旗艦も含め、旗艦になったことはないと思いますが。
また、「翔鶴」の艦隊旗艦は昭和17年7月14日の3F編制時の勘違いではないですか。
匿名
- >4
S16.4.10、1航艦司令長官代理は将旗を赤城に掲揚。
S16.5.21、1航艦司令長官は将旗を加賀に移揚、S16.6.6、1航艦司令長官は旗艦を赤城に変更。
S.16.7.26、1航艦司令長官は将旗を鹿屋基地に移揚、S16.16.8.26、1航艦司令長官は旗艦を翔鶴に変更、S16.9.8、1航艦司令長官は旗艦を赤城に変更。
S16.9.27、1航艦司令長官は旗艦を加賀に変更、S16.10.25、1航艦司令長官は旗艦を赤城に変更。
S17.5.4、1航艦司令長官は旗艦を加賀に変更、S17.5.18、1航艦司令長官は旗艦を赤城に変更。
至高たる海原
- >5
日付から考えて、赤城が整備で使えないなどの際に一時的に異動させていただけ、ではないでしょうか。少なくとも作戦に赴く際に赤城以外が一航艦旗艦であったことはありませんね。
#16.8.26 の翔鶴への変更は、翔鶴が就役直後(16.8.8 就役)だから検査のためでは?
tac
- >4
移動記録に見落としがあったので改訂。
S16.7.19 1航艦司令長官は旗艦を漣に変更、S16.7.26、鹿屋基地に移揚、S16.7.31、旗艦を赤城に変更
S16.8.26 1航艦司令長官は旗艦を翔鶴に変更、S16.9.8、旗艦を赤城に変更
>6
5に対するレスですか???
私は旗艦の移動記録は調べたことがあっても変更の理由は知らないので私的な意見は控えたのですが・・・
お尋ねの件については、戦前の空母の詳細な行動記録は調べたことがないし突合したこともないので、解答を持ち合わせておりません。
至高たる海原
- 畑違いですが、ネットで両艦の行動記録を検索してみました。
S17.5.4とS17.5.18の旗艦交代についてだけ、判断材料になりそうな
事実がわかったので、ご紹介します。
加賀は真珠湾から帰投した後、パラオで艦底を損傷する事故を起こし
ています。このため赤城がセイロン島方面に出動していた頃、一足早く
佐世保に戻って修理に入っていました。
4月末に赤城は横須賀に帰って、艦長交代などもありましたので、お
そらく他の人事や各種の整備もこの間に進んでいたでしょう。一足早く
修理を終えた加賀は5/4に佐世保を立ち、同日呉軍港近くの柱島泊地に
入っています。この日が旗艦交代の日なので、南雲長官としては横須賀
にいるより、艦隊の集合場所にいたほうが仕事がしやすかったのでしょ
う。そして5月18日に赤城が柱島に到着すると、早速旗艦を戻している
わけです。
マイソフ