1946 |
日本海軍戦艦「壱岐」(旧ロシア戦艦インペラトール・ニコライ1世)について質問します。 世界の艦船・日本戦艦史に掲載されている横面図を見ると、ロシア時代にあった艦尾の砲郭(?)が撤去されて、そこにある砲が甲板に露出しています。 捕獲された後に改装されたと思うのですが、日本艦時代の写真が見当らず正確なところが確認できませんでした。この部分がどうなっていたのか、あるいは日本戦艦時代の「壱岐」の写真が載っている資料をご存知の方、教えていただけないでしょうか? A-140 |
- 残念ながら日本戦艦史以外の壱岐の図面を持っておらず、写真も知らないので殆どゴミなのですが…
ロシア時代の側面図を見る限り砲郭は最初から主砲より一段低い甲板にあり、艦尾でそれより上の区画に武装は無いようです。(この区画はどうも居住区のように思われます。)
(見つからなかったのですが、過去のAnsQでこのクラスを大型王室ヨットと称する記述を見たような気がします。この記憶が正しければ、比較的大きいこの区画は応接などのための居住区だったのかもしれません)
日露戦争の戦訓としてスプリンターの発生源となる上部構造物の簡略化があったと聞きますので、私としては、余り必要ではないこの箇所の構造物は撤去され代わりに軽砲が配置された…と言った所ではないかと思います。
…やはり写真等が必要ですね(汗)。失礼しました。
摂津
- ああ、そいや三笠に置いてある模型は、ニコライ時のだっけ?
SUDO
- 真横からの写真で良ければ、明治39年2月撮影の写真が丸スペシャル第113集「戦艦扶桑型・伊勢型」の
P75に掲載されています。
大塚好古
- 皆様、ご回答ありがとうございました。
A-140