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黄海海戦で活躍した三等巡洋艦の千代田に関して質問があります。 千代田は限られた区画に92ミリの舷側装甲を持っていたそうですが、日本の2、3等巡洋艦で舷側装甲が復活するのは明治40年計画の筑摩型まで待たねばならず、それまでにも防護巡洋艦は建造されています。これは千代田を建造した英でも同じで、こちらは本格的に舷側装甲を持つようになったのは1910年計画のチャタム級以降のようです。(それ以前の偵察巡洋艦の一部に舷側装甲を持つものはありますが) 明治27年の黄海海戦以降防御甲板は役立たずと見なされたと言われますが、これをみると2、3等巡洋艦に関してはこれは当てはまらないように思えます。 千代田と言う舷側装甲を持つ3等巡洋艦の成功例があるのに、舷側装甲の採用が黄海海戦以降もしばらくなかったのはなぜでしょうか。どうかよろしく御願いします。 摂津 |
- 千代田が「成功例」なのかどうかは私には判りません。
ですが、重量問題があったのではないかと想像します。
SUDO
- あ、もうちょっと補足しときます。
防御巡洋艦の甲板による防御が何故駄目だったのかは
単純に言うと、守れない場所が非常に広かったと言う事になります。
つまり限定空間に舷側装甲を施した場合も守れない場所は非常に広い事になり、結果的には何も変わりません。
そして、舷側装甲の有無に関わらず、艦にはそれなりの甲板防御が必要です(弾片阻止用)
よって、千代田の方式では防御重量は大して変わらないか増えてしまうわけです(このあたりは厚さや範囲でも変わるものですが)
チャタム級等では高張力鋼の大量使用や機関重量の削減と言った重量軽減があって初めて可能になったものだったのです。
SUDO
- SUDO様、いつも御回答本当に有難うございます。
「成功例」と書いたのは、手元の資料をぱっと見た限りこれと言った悪評が見当たらなかったためで、筆が滑ってしまいました。
済みませんでした。
さて、重量問題があったとなると
フネの性格は異なりますが、千代田は消えていったベルテッドクルーザーの流れの中に含まれるように思われます。
(時代的にはベルテッドクルーザーの余韻のような感じになると思います)
この見方で良いのでしょうか。どうかよろしく御願いします。
摂津
- >3
これはどうなんでしょうかね・・・。
駆逐艦や巡洋艦の一部で、甲板から出てしまう缶頂部を厚い板で覆った事例がありますので、千代田の場合ももしかすると同種のものかも知れません(配置図等を知らないのでなんとも言えませんが)
ですが、ご指摘のとおり、ベルテッドの流れと言うか影響は多分にあったのではないかと想像します。
SUDO
- SUDO様、御回答有難うございます。
千代田の装甲様式等のちゃんとした資料が見つからず、十分確実な事ではないと思いますが…
福井静夫氏の「世界巡洋艦物語」等には「全長の三分の二(世界の艦船の日本巡洋艦史では半分)に水線装甲を有する」といった記述があります。
同時期の英巡洋艦で確かにそう言う巡洋艦が複数出て来ていて、それの原因となった直立式のレシプロ機関を千代田も積んでいることなどを考えると
主機が防御甲板から飛び出していた可能性は十分あると私も思います。
ですが、私としてはそこまで局限された装甲では無かったのではないかと思います。
なんにせよ、千代田の装甲の位置、高さなどがわかればもう1歩踏み込めるのですが…。
摂津