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艦船が最期を迎えた時、タイタニックのスミス船長のように、その長が艦船と運命を共にするということは、外国ではどの程度あったのでしょうか? また、旧帝国海軍ではどの程度行われたのでしょうか?(100% ?) (「人物」関係かとも思いましたが、「艦船」に密接に関係しますから、こちらで・・・) パパ |
- どの位の割合で運命を共にしたか、は判りませんが・・・
我が海軍では「軍艦部署標準」というものがあり、それには「総員退去にあたって、艦長はその艦に搭載されている最も大きな艇でフネを降りる」という様な事が書かれていたようです。
その後、昭和10年代にそれが改正され、その箇所は削除されたのですが。その意味するところとしては、艦長が先に逃げ出すのはまずい。という事であった様です。
大戦中、我が海軍では海軍省から「沈没に際して、艦長は艦と運命を共にする必要はない」という通達が出された様ですが、実際には、運命を共にする例が多かったようです。
それについて「利根」艦長の黛氏は「艦に乗組員が残っている以上、それを見捨てては艦を離れるわけにはいかない」という心理が働いたのではないか、と述べております。
「軍艦部署標準(改正後は軍艦戦闘部署標準と軍艦保安作業部署標準、に分けられたようです)」や「海軍省からの通達」について、詳細は詳しい方に譲ります。
tackow
- 私も艦長が艦と運命を共にした割合は判りませんが、少しだけ述べさせていただき
ます。
・モンテビデオ沖で自沈したアドミラル・グラーフ・シュペーの艦長ラングスドル
フ大佐は陸上で自決しました。彼も死場所こそ違え、艦と運命を共にしたと言える
のではないでしょうか。
・マレー沖で日本陸攻隊に撃沈されたプリンス・オブ・ウェールズの艦長リーチ大
佐は艦と運命を共にしたのですが、遺体発見時に救命胴衣を着用していたという話
を聞いたことがあります。職務に忠実な余り脱出が遅れたという推測がなされてい
たように記憶しています。
斯様に、「艦と運命を共にした」中にはそれぞれ様々な理由があるわけで、今とな
ってはその理由がすべて判明するわけでなく、「脱出可能な環境にありながら明確
に退艦拒否の意思を示し、結果戦死された艦長の割合」(貴殿がおっしゃる「艦と
運命を共にした」とは詳しくはこういうことではないかと愚考致しました)など、
おそらくは永遠に算出不能なのではないでしょうか。
追伸
日本海軍でも水上機母艦「瑞穂」の艦長澄川道男大佐は沈没時下艦しており、しか
る後少将に昇進しています。
新参親爺
- 実際に艦と一緒に沈むことではなくて、艦の最期を見届けることが艦長として必要なのではないでしょうか。
戦艦「比叡」の某艦長はそれをしなかったため左遷されたように記憶しています。
志郎家の客人
- 割と最近まで、15年くらい前でしょうか、日本の船員の所掌について定められた法律(海事法?)には「船長の最後退船義務」というのが明文としてあったと記憶します。何かの事件−船長がその法律の遵守故に亡くなった(と思われた)こと−を契機に、(野島岬沖で連続して日本製の大型鉱石運搬船、ぼりばあ丸・かりふぉるにあ丸が破断沈没した事件?)その条項が削除された−国会で議決されたーと思います。
船長がその船と運命を共にする程度は、民族性にも、船長の船に対する愛着の程度とも、乗員・乗客・積荷・任務に対する義務感の多少にも何の関係く、外国と旧帝国海軍を分けるものは何もないように思います。多分この伝統は陸に足をつけている人間には窺いしれない人の心に由来し、飛行機においても、恒星間宇宙船においても、続くだろうと思うものです。
IWA
- 条文に当たったわけではありませんが、
現役船長が、映画タイタニックのような
状況では自分は船と運命を共にするしかない。
船長は乗員乗客などの退避が確認されたあとで
ないと退船できないからだ。
そうでないと法律で罰せられる。
とご自分のHPで述べられているのを見たこと
があります。
野島崎沖の船長のなかには「私は船に残る」と明言れて
殉職された方や、助かった船長のなかにも「乗員に死者
が出たら私も退船しなかった。」と発言された方がおられ
たと聞いています。
SAW
- 国や民族等とは無関係に、乗員・乗客が無事かどうかが判断の一つの基準、ということですね。
皆様、ありがとうございました。
パパ