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フランスから、日本への回航途中に沈んだ「畝傍」ですが、実際は日本近海の気象条件等を充分に考慮せずに建造されており、とんでもない欠陥軍艦だったと言うのは、本当でしょうか。 山家 |
- いつもお世話になっています。過去ログ検索をしたのですが、私には見つけられませんでした。「畝傍」が、喫水の高さの割りに、大口径の砲を搭載しており、そのためにフランスから日本への回航途中で悪天候に遭った際、転覆沈没に至ったという説を、以前に私自身雑誌で読んだことがあります。従って仮に日本に無事についても、台風等を考えると、日本近海で行動するのは困難で、日本は、フランスにとんでもない欠陥軍艦を売りつけられたという話を聞いたのですが、「畝傍」は、本当にそのような軍艦だったのでしょうか。
山家
- 「畝傍」は明治19年にフランスのル・アーブル造船所で竣工した装甲巡洋艦で、垂線間長98m、最大幅13.1m、深さ8.5m、常備排水量3615トンの船体に主砲として24センチ単装砲4基を搭載しています。設計はフランス式で比較的乾舷の低い(船体深さと喫水からすると約3m弱)船体にタンブルホームをもつ船型だったとのことです。常備排水量3600トン、後の秋月級駆逐艦とほぼ同大の船体に当時の戦艦級の主砲である24センチ砲を4門、15.2センチ副砲7門ほかを搭載という極端な重武装は、トップヘビーとなり、船の復元性に大きな悪影響を与えたであろうことは容易に想像でき、元々かなり余裕の少ない、無理をした設計だったと考えてよいと思います。
また、真偽は不明ですが「畝傍」の船体幅は建造の手違いにより、設計よりもいくらか狭かったとも言われており、元々復元性に余裕が少なかったと思われる上、これが真実だとすれば多少の時化に合えばいつ転覆してもおかしくないでしょう。
しかし、最小の船体に最大の武装という日本海軍の方針は、この後も引き継がれていき、遂には昭和に入って「友鶴」事件や「第4艦隊事件」を引き起こしてしまうわけです。
ちなみに、「畝傍」の消失に伴って海軍には124万円の海難保険が支払われ、そのお金で海軍は巡洋艦「千代田」をイギリスで建造しました。
つね
- つねさま、どうもありがとうございました。
山家