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英国戦艦「ロドネイ」や「ネルソン」に見られる主砲を艦前部への 集中装備したタイプの戦艦はこの2隻以外には見られないようですが コレには何か理由があるりでしょうか。 私にはこの2隻は重量バランスが悪いように見えるのでそれが原因 かと思っているのですが・・・。 ぬらりひょん |
- 戦艦級ですと、フランスのダンケルク級とリシュリュー級も前方集中配備です。
外見的なバランスの悪さはたしかに大事な要素になったでしょう>ネルソン級は醜悪な姉妹とまで呼ばれたそうです。その威容が国威にも影響する千巻の場合は無視できない要素になったでしょうね。
さて集中配備は何故選択されたのかを考えてみましょう。
前方集中配備式は重防御必須な武装関連機材を一箇所に集中することで重量効率を稼ごうとした結果選択された手段です。ネルソンは軍縮条約の重量制限の元建造された艦で、しかも条約型巡洋艦等での重量軽減工夫の結果を活用できなかった世代の艦です。よって極めて神経質に重量削減を行っています。(結果的に条約制限よりもずっと軽く済んでしまったほどです)
そして集中配備方式は、後ろに撃てないとか、強烈な爆風が一箇所に集中することや発砲の衝撃が船体の一箇所に集中する(一説にはネルソンは全門斉射が出来なかったとか)等のマイナス面も抱えています。外見的にバランスが悪いとか、艦橋が後方にあって操艦が難しい等もマイナスでしょう。
となると、ネルソンで制限より軽く済んでしまったのですから、そこまで無理をしてマイナスを甘受する必要は薄いのではないでしょうか?
フランス艦は集中配備によって重量をうまくコントロールして重厚な防御を与えましたし、センスの問題なのか外見のバランスも良好です。それでも改リシュリュー級とでも言うべき後期建造予定艦は前後に主砲を配置する計画だったとも聞きます。後方に主砲が打てないことが問題だったと思われます。また前方集中配備はそれほど重両面では有利ではないという考えもあります。そうなると不細工で後ろに撃てないというマイナスだけが目立つ結果になります。
ネルソンの特色ある配置は、条約制限やジュットランド戦における防御の重要性、さらには強烈で巨大な16インチ砲装備、そして未だ不十分な技術といった厳しい条件が、結果的にそれを共用したものだったのでしょう。
SUDO
- ネルソンの原型は、アメリカのダニエルズ・プランと日本の八八八艦隊計画艦に対抗したN3級戦艦・G3級巡洋戦艦です。この両級はネルソンの第三砲塔を艦橋直後に持ってきた感じの艦です。英国海軍も一足飛びに艦首集中配置にしたのでは無くて、通常型からG3・N3を経て段階的にきた訳です。
一般にネルソンはG3の縮小・低速型と言われます。マイナス7ノットと引き換えに1万4千トンの減量に成功しています。砲戦力は同等ですが、水平甲板装甲は3/4に弱体化していますからどこまで効果があったのかは疑問です。
また史実上の平賀・福田ラインの大和では無く、藤本・江崎ラインの大和原型は艦首集中配置でした。またこの場合は巡洋艦利根を技術的テストベッドとして建造し、このタイプの有用性を調査したようです。
戦艦乞食
- SUDO様、戦艦乞食様ありがとうございます。
成る程当時の技術と条約による制限であのような形となっていたのです
ね。大変参考になりました。
実は今戦艦を自由に設計してそれを戦わせるPCゲームをしていまして
その際の戦艦の設計で前方集中配置にはどのようなメリットがある
のかなぁとか思ったので書き込みさせていただきました。
ぬらりひょん
- あ、あれですね(笑)なにげにやってる方多いですが。
私は反射神経おばかなのでできません(泣)
私の分も頑張って下さい!
戦艦乞食
- ネルソン級の水平装甲がG3及び元計画のO3より減少したのは、1922年に行われたバーデン及び
シュパーブへの実弾試験結果から、同級の戦闘規定距離においてはあの厚みで充分、と
判定されたのもあるようです。また弾薬庫部分に比べて薄い機関部分の水平装甲については、
この時の結果から規定された戦闘距離には完全に対応できないが、大きな危険は無い、と
判定されたようです。
大塚好古
- おお、大塚先生!
なるほどちゃんと意味があったのですね。
あの時点で大和に匹敵する水平装甲は凄過ぎですし・・・
またもや便乗質問ですが、G3・N3はよく当て馬だったと言われますが実現可能だったのでしょうか?
戦艦乞食
- 個人的にはN3は主砲製造がネックになったと思いますが、G3は特に問題なく建造できると思います。
なんでもエゲレス人はワシントン条約の際、主力艦の排水量上限を43000トンと設定させて、
G3級を2隻を建造することを画策したそうですから、技術的問題は無かったのでしょう。
(つーことは、史実の長門型/コロラド級整備の代わりに、アメリカはBB-49級2〜3隻を建造、
日本は天城型か加賀型を整備するという条約の纏め方を検討したことでもあったのかな)。
個人的には43000トン型とすると、フッドの主機を使うとかG3最終案よりやや能力が落ちる
/やや小型となった戦艦になる気がしますけどね。
あと戦艦乞食殿の妄想を膨らませるために書いておきますが、実を言うとイギリスが最初に
考えた35000トン型は速力29kts程度を発揮できる高速戦艦型だったりします(主砲は15inx9)。
これがワシントン条約締結の結果、16in砲装備の戦艦(ネルソン級)となった結果、比較的
低速な速度を持つ純戦艦型に計画が切り替えられる事になったようです。
大塚好古
- >2
ちょっと変じゃないですか?良く知られている「大和」設計案は、23通り中16通りまでが三連装の主砲塔を前甲板に集中配置していますが、これは、設計者の「ライン」とは無関係なのでは?
また、利根型巡洋艦をテストベットに、という事ですが。利根を起工したのは昭和9年の暮れで、大和の設計はその翌年から本格化しています。従って、完成していない利根のデータを設計に反映させるのは無理でしょう。
tackow
- うわあ、ありがとうございますぅ 大塚先生!
その29ノット、15インチ×9とはKGV原案にも似たようなのがあったような・・・
夢よもう一度とか、関係あったのでしょうか・・・
とにかくこれで、おにぎり30個はいけますぅ、ありがとうございました!
戦艦乞食
- よろこんでる暇なかったですね。
それに三万五千トン級ってKGVの事じゃないですか・・・はやとちり(泣)
>「大和」設計案は、23通り中16通りまでが三連装の主砲塔を前甲板に集中配置しています
これは前任者である藤本・江崎による艦首集中型を闇に葬リ去るための当て馬的設計案だったそうです。
利根に関しては、時間的に仰るとおりですね、御免なさい。ただコンテ・ディ・カブールとヴィットリオ・ヴェネトのような関係ではあるでしょう。
戦艦乞食
- ↑上で書いた35000トン型ってのはワシントン条約に対応した最初の戦艦の計画ですよ(笑)。
KGVとは違います。確かに1935年の研究で出たKGV原案には似たようなのがありますよね<15in砲を
9門装備の35000トン試案
大塚好古
- おお、またもや墓穴(爆泣)
大塚先生ごめんなさい、土佐と一緒に射撃実験に供されてきます・・・
戦艦乞食
- ひょっとすると金剛代艦級に当たる、1927から1929年の計画案ですか?
10,11,12,14,16インチ砲案は知ってましたが15インチ案は知らなかったので・・・
とにかく、有難う御座いました。
戦艦乞食
- >10
そうでしょうか?「A140」は「平賀私案」と呼ばれるものに大変近い(という説があります)ですけど、それは三連装の主砲塔を全て前方に装備していますよ。ですから「ライン」とは無関係、と書いたのですが?
tackow
- またもや墓穴!
大塚先生はネルソン原型と仰ってますね。
さっきの発言は取り消しです。
関東大震災で天城の下敷きになってきます・・・
戦艦乞食
- その平賀私案こそ、金剛代艦時の失敗を省みて、新戦艦設計に関わるための方策だったようです。基本方針は従いますよ、と言う様な・・・
戦艦乞食
- うんにゃ、1921年の計画です<15inx9の35000トン試案(F3)。序でだから要目を書くと
◯ 排水量35000トン
◯ 兵装15inx9
◯ 全長740ftx幅106ftx喫水28.5ft
◯ 機関出力96000馬力、最高速度28.5kts
◯ 水線装甲12in(傾斜式)、水平装甲7in
てなもんです。おにぎり30個どうぞ(´▽`)
なお、KGV原案にあった15inx9の計画は1935年の研究によるものですが、詳細は知りません(爆)。
大塚好古
- 大塚先生ありがとうございます。
装甲構造はG3・N3・ネルソンと同様ながら、スペック的にはQEの正統後継艦という感じですね・・・これは凄い。ネタ抜き回転寿司50カンいけます。
tackowさん、私の説はアノ遠藤昭先生のですから、もちろん貴方の仰る定説の方が正しいかもしれません。とにかく判断の難しい問題ですね・・・
すみません、無責任な言い方で。
戦艦乞食
- というか、その遠藤氏が述べる時系列では、平賀私案→藤本案→江崎案→A140と首尾一貫して「艦首集中」なのですから・・それを抜きにしても、大和の設計では主要装甲区画の短縮が大きな命題でしたから、艦首に主砲塔を集中させる事が検討されたのは「ライン」云々は別にしても当然ではないか。と考えるのが、遠藤氏の説く「作為」よりも自然ではないですか?
tackow
- 最後の艦政本部長渋谷隆太郎氏の証言では、昭和5年当時から、毎年軍縮条約明けに着工すべき新戦艦についての設計がなされており、昭和8年ごろにはパナマ運河幅を越える巨艦建造案がまとまっていたそうです。
藤本喜久雄の腹心、江崎岩吉造船中佐は艦政本部員として軍令部兼務の辞令を貰い、軍令部石川信吾中佐と共に新戦略・新戦艦について研究、根回しを始めます。
昭和8年10月21日、石川は「次期軍備対策私見」を発表。5万トン、30ノット、約20インチの主砲9門などの提案がされました。
これを受ける形で昭和9年3月21日の軍備制限研究委員会第二回会合で「建艦競争に関する参考資料」が発表されます。これが藤本案と言えましょう。
この後、砲熕部門で20インチ砲より18インチ砲の開発が望ましいと言う意向がしめされます。これにより昭和9年7月5日、江崎による艦首集中型高速戦艦案が提示されます。
平賀私案は、小山技師をとおして入手した江崎案を元にまとめられたものと遠藤昭氏は説きます。これが昭和9年7月らしいですから微妙なところではありますね。
ただ江崎案はおそらく藤本氏の意向を受けているはずですし、友鶴事件以降権力を握った平賀氏と福田氏は艦首集中案の変更に力を注いでいますから、やはりこれを平賀氏発案と見るのは無理があるのではないでしょうか?
戦艦乞食
- >20
学研の例のシリーズ「大和型戦艦2」からの引用です。遠藤昭氏の藤本案想像図などはもう妄想の世界ですが、人物関係などは信憑性あるような気がするんですが・・私も妄想クンでしょうか?
戦艦乞食
- もし、「大和型2」が手許にあるのならば、平賀案というのは昭和7年と書かれてはいないでしょうか?
人物評というのは、その人によって受ける印象が違うものですから、ここで俎上に上げるテーマでは無いと思います。
tackow
- 人物評をここですべきで無いと言うのはtackowさんの仰るとおりだと思います。
その事も含め、便乗質問や無意味なおちゃらけをした事は全ての方々に謝罪いたします。誠に申し訳ありませんでした。
平賀私案の日付に関しては、同書本文67ページを御覧下さい。文脈から考えてもこちらの記述の方が正しいとおもわれます。また、遠藤昭氏の問題作「戦艦大和」でも9年7月説をとっております。73ページ第6図の7年9月は誤植ではないでしょうか?
戦艦j乞食
- あら、そうでしたか、、9年7月だと微妙ですね。図面の日付を覚えていたので・・確かめてから書き込むべきでした。
tackow
- はい、微妙なんです・・・
ですから遠藤先生の説を横においとけば、真相は依然闇の中です。
と、言う事で勘弁して下さい・・・
戦艦乞食