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戦時中に他国の捕虜を移送する際、移送にあたる船舶や航空機には何か識別するためのものはあったのでしょうか? また、例えばそのような船舶が敵国(捕虜にとっての母国)に撃沈され、捕虜に被害が生じた場合、戦後等に問題となったことはあるのでしょうか? nakajima |
- 「戦場に架ける橋2」の元ネタである1944年8月の勝鬨丸と洛陽丸の撃沈の際は、日本船は特に識別符号を
出していませんね。捕虜移送の場合は事前に通過日付と識別符号を敵対国に通知すれば良かったはずですが、
この時はその通知も出ていないはずです。ただこれが戦後問題にされたかどうかは知識不足にて知りません。
大塚好古
- 追記です。
先日父の遺品を整理していたところ、祖父が戦死(軍属でも「戦死」で良いのでしょうか)した際の「事故報告書」が出てきました。
祖父は戦前から商船に乗り込んでいたのですが、潜水艦の雷撃にあい、沈没の際に行方不明となりました。報告書には被雷してから沈没するまで、また生き残った乗組員が付近に漂着し、敵のパトロール隊(?)の襲撃を受け犠牲者をだしつつも味方駐屯地までたどり着き、帰社するまでの経緯が淡々と記載されています。この時の積み荷が「俘虜1157名および警備隊員」とあるのですが、被雷後は彼ら捕虜についての記述はいっさいありませんでした。
突然の質問で申し訳ありませんが、御教示いただければ幸いです。
>戦後等に問題
曖昧な表現ですが、戦勝国、敗戦国それぞれにおいて責任が問われるようなことがあったのか、という意味です。
nakajima
- 『阿波丸撃沈-太平洋戦争と日米関係-』
ロジャー・ディングマン 著
川村孝治 訳
日本郵船歴史資料館 監訳
成山堂 発行
などが参考になるのではないかと…
穂積
- 外見から識別できるような物はなかったようです。ゴミですが、地中海では英軍がドイツ船舶を攻撃していましたが、暗号の解読で積荷の内容が分かったあとには解読の事実を隠すため故意に捕虜を載せた船舶を攻撃したと言われています。
Vinegar-Joe
- 駒宮真七郎 続・船舶砲兵1981 出版共同社に、春風船団(マタ30船団)で撃沈された阿里山丸が俘虜(POW)1,781名を積んでいた記述があります。沈没時、乗組員は輸送指揮官の命令に反して捕虜を船と共に沈めることをせず、救命具を与えて捕虜と水食糧を分け合って2日間漂流し、乗組員だけが駆逐艦に救助された体験談が書かれています。結局俘虜は8-9名が中国漁船に救助されただけのようです。
宇野公一 雷跡右30度 1977 成山堂書店には 1944年8月能登丸が捕虜1,060名を運ぶ話があります。著者は、捕虜取扱いの国際条約がどうなっているかは知らないと書いていますが、午前、午後の2回上甲板で水浴びをさせたそうです。本船沈没時には艙口蓋を閉じて捕虜は船と共に沈める取り決めであったとも書いてあります。この船は安着しましたが、著者は捕虜を積んでいたため攻撃を逃れたのではと考えています。戦後船長と一等運転士は捕虜虐待のかどでGHQに出頭を命じられたそうです。(罪は得なかったようです。)
勝鬨丸、楽洋丸で運ばれていた捕虜は何人かだけが米潜水艦に救助され、その中でも豪巡パース(つい先日は没後60年記念日だったそうですが)の乗員だった人はいまも健在なようです。
米情報部が日本船の積荷を知っていたのではないかということは、生存捕虜にはタブーの話であると、能登丸で運ばれた元POWに聞きました。
このような断片的な話からですが、告発する人間がない場合、戦勝国側にも負い目があって海没捕虜についてあえて敗戦国に責任を問うことはしなかったのではないかと思います。その結果はっきりした記録がどちらの国にも作られなかったようで、外国の掲示板で時々、遺族が通知された死亡日から日本のPOW輸送船のことを問うているのを見ます。
IWA
- >5.(補)上の豪巡パースの元POWが乗っていた船は楽洋丸で、最初の雷撃を受けた時に舷側を越えて海に飛び込んだそうです。閉じ込められてはいなかったようです。
IWA
- この船は昭和17年7月1日にルソン沖で米潜 Sturgeon (SS-187) に撃沈された大阪商船の もんてびでお丸 7,266総トン? 。(米公刊戦史では捕虜数1,050人)
IWA